ワールズエンド・サテライト

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『たまこラブストーリー』レビュー(ネタバレ含)

ダビさんと公開初日の4月26日に観に行ってきました。

明確に京都を舞台にした作品を京都で観れるのは良いですね。

 

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 (写真:MOVIX京都前にて)

と言う事で感想記事書きます。

ダビさんは、僕と観た時にいたく感動したようで、終演後、僕と話した後にもう一回、観に行ったのでより濃い感想レビューを書いてくれると思うので期待してます。

 

たまこラブストーリー』は地元企業、京都アニメーションの12年から続く自社制作アニメシリーズのなかでも原作から完全自社内オリジナルのもの(これは『MUNTO』シリーズの09年の『空を見上げる少女の瞳に映る世界』以来)となった『たまこまーけっと』の新作映画版。

 

タイトル通り、ネタバレも含んで書きますが、そこに踏み入る前に言えるのは、TVシリーズのそれよりも明らかにクオリティが高かったということです。

最初に全体的な感想、構成への感想とかを書いて、中盤に無粋なツッコミ、終盤に特に個人的な考察(今作品におけるアナログとデジタルの拮抗)と音楽とかについて書きます。

 

 

今作、まず観終わっての感想としてもったのが、視聴者視点で観た時の登場人物の位置関係(遠近法的にみてのそれぞれのキャラのフォーカスの当て方)、ストーリー構成がTVシリーズとは比べ物にならないくらいバランスが取れているということです。

TVシリーズでは(『ごちうさ』の各話レビューでも書いたように)うさぎ山商店街の人々の群像劇を描くのか、主人公たまことその友人の日常を描くのか、なかなかどっちつかずの中途半端で無駄の多い作品であるという印象でした。

 

しかし映画版はその問題を克服し、その上に新たな物語としての意味を付け加えることに成功していると思います。

 

それができたのは、ひとえに物語の主題がタイトル通りのたまこと彼女に思いを寄せるもち蔵の恋心にフォーカスをあてきっていることからでした。

そして、たまこともち蔵の恋にフォーカスし、物語としての無駄を省いてシェイプアップすることによって、結果的にたまこの周囲の友人や妹、あんこの存在やキャラの良さも浮き彫りになっていました。

まあこれは映画版制作の報を聞いたときから思ってましたけど、なんでTVシリーズでこれをやらなかったのかと。苦笑

 

描かれているのは物語としては王道中の王道である、ハイティーンの過渡期の少年少女がそれぞれ変わっていく日常に相対する青春映画。ビルドゥングス・ロマン的な成長・成熟の時。そして、それがたまこにとっては"恋"という形で訪れました。

ストーリー構成について、もっとメタ視点でつっこんで言えば、(簡略化すれば)幼馴染のイケメンから満を持して告白される→逡巡する→自分も思いを伝えるというものでこれも基本的には全編、少女漫画の王道のプロット

 

しかし、それを00's日常系アニメの代表格的な会社、京アニが制作すれば、非常に女性的な感性で恋模様を描くことに成功するのだなと思わせられました。

プロット自体は王道なのに、その描写をコミカルながらもかなり丁寧になぞっているので、TVシリーズとは全く違う持ち味をもったように思います。

 

 

劇中、たまこ達は高3に進級しています。皆が具体的に進路を考えるなどしていて、物語中において「変化」の時が訪れていることを序盤から如実に描いています。

皆が自分の思いに向き合っていく中、もち蔵も映画を学ぶために東京の大学に進学する…そうしたら、もうたまことはこれまでのように会えない、と思い悩んだところから物語は始まります。

かなり、もち蔵よりの視点で序盤は始まる訳ですね。

 

みどり、かんな、史織がそれぞれ進路を考え部活に励む(こう書くと同社の『けいおん!』シリーズを思わせるな…)なか、たまこは相変わらず餅や彼女の周りを取り囲む人たちのことで頭がいっぱい。

そんなマイペースなたまこに対して、もち蔵は具体的に将来を考え、みどりの後押し(と書いて挑発と読む。笑)もあって、出町柳の飛び石のところで告白します。

この飛び石のところは『四畳半神話体系』でも何度も登場した京都の名所の一つですね。自分も大学入った時とかはたまに友達と行ってたなぁ。

 

 

ここで視点がかなりたまこよりになります。

突然現れた"恋""好き"という言葉、そしてそれの持つ意味を前にして、たまこはショートしてしまい、友達たちと同様に、高3としての成長が不可避のものとして促されます。

このバグったたまこは面白いですね(「かたじけない!」「もち蔵は元気か?私は元気だ、じゃあな!」etc…)。

まぁ無粋につっこんでみると、たまこ高3なんだし、性的なあれこれに無自覚すぎるだろうとも思いますけど(おしり餅、おっぱい餅etc…の描写もおいおい、と。苦笑)。

 

ちょっと踏みいいってみると、このもち蔵の告白までのたまこ(≒TVシリーズのたまこ)って、自分の願いや想い=商店街や学校の皆といつまでも一緒に幸せでいたいといったかなり範囲が広くて包括的な感じ(ある種の母性?)だったと思います。

しかし、恋心を向けられることに自覚的になった瞬間にたまこは商店街を象徴するキャラではなくて、北白川たまこという1人の固有の人格、ハイティーンの女の子に「なった」と思うんですね。それが突然きた「成長」の契機と言えるでしょう("始まりは誰にもふいに訪れるから"北白川たまこ「ドラマチック・マーケット・ライド」)。

 


『たまこラブストーリー』本予告 - YouTube 

 

 

ふいの幼馴染からの告白にあたふたするたまこ。かんなが応募したバトン部での市内フェスへの練習も失敗が続きます。

あまりに挙動不審なたまこを見かねて友達たちはたまこの相談に応じ、たまこはその状況と言葉にできない心情を吐露します。

 

いやはや個人的には、たまこ、幼い頃からの友人であるもち蔵の気持ちを汲んで自分の中で背負い込んでしまうのかと思ってたのですけど、そうでもないんですね。苦笑

これを言って結局たまこがもち蔵をフるとかだと高校生女子ネットワーク怖え…ってなるんですが、まあそれは杞憂か。苦笑


その後、たまこのじいちゃんが餅を喉につまらせた時に北白川一家を大路(もち蔵)一家が助ける、たまこがバンドマンだった頃の父ちゃんとお母さんとの交換デモテープを発掘するなどして、もち蔵への想いにどんどん直面していきます。

 

特に後者は大きかったかな。随所に挟まれるもち蔵の回想シーンにもあるように、たまこにとってお母さんは早くに亡くなって、(もち蔵告白シーンの寸前でたまこが自ら語った様に)自分では到底超えられないor到達できない母性の象徴のような機能を果たしていたように思います。

しかし、父ちゃんのギターロック曲に対してお母さんが返信としてB面に録音した曲は、あんこが言うように「うまくない」唄がのせられたものでした。

ここで、 想いをただ伝えることの不格好さ、不細工さに初めて向き合うと同時に、彼女の中でお母さんは超えられないものから、自分でも近付く事のできるものになります。

 

そこからは腫れ物が落ちたようにどんどん冴え渡るたまこ。

梅小路公園のような場所で行われた市内フェスのバトン演技も成功します。

そしてラストシーン、みどりに後押し(これは挑発とは読まない。笑)されて、誤解のままに藤森から京都駅にかけて、(本当はただのオープンキャンパスに行くだけの)もち蔵を追いかけます。ここの風景は明確に京都、奈良線沿いの風景が描かれていて個人的には嬉しかったですね。

新幹線に乗り込むもち蔵を呼び止めるたまこ。想いに任せて、糸電話を投げつけます。

そして彼女が言った言葉…一瞬の暗転。フィナーレへ。

 

 


『たまこラブストーリー』特報第2弾 - YouTube

 

 

うーん、こうしてストーリー構成だけを抽出するとやっぱり少女漫画っぽいですね。フラワーコミックスとか別マ系とでも言うのかな。特に00's前〜中期の別マっぽいプロット。

それは全編のみどり、かんな、史織、あんこらの登場頻度と登場場面、商店街の人々のバランスにも言えることだと思います。

 

 

さて、無粋なツッコミへ。

繰り返すけど、たまこ、さすがに高3女子としては性的に無自覚すぎるだろうと。

今思えばTVシリーズにおいても、相当もち蔵からのアプローチはあったと思うし、思春期の自意識的にみれば「好きと気付かない方がおかしい」くらいなのに、たまこがかなり未成熟に描かれます(こういった問題ってちょとシュールだとかこじらせた系の作風のアニメだったら、「もち蔵が自分の事を好きだと自分自身で気付いていない訳がないだろう?」と自分で自分を追い詰め自意識のドツボにはまっていくような作品にもなり得るでしょうが、さすがにそうはならない)。

まあ、と言う訳なので、みどりからの恋心にも無自覚です。これについてはTVシリーズを観てないと映画だけでは補完できないと思うけれど。

 

 

ここからが個人的な暴論じみた考察なんですけども、と言うのもたまこにとって恋の世界=大人の世界、自分では到達できない"あちら""向こう側"の世界の話って感じの認識だったのではないでしょうか。

それがメタファーとして表れているのが、TVシリーズから作中で執拗なまでに描かれるアナログとデジタルの拮抗でしょう

 

作中で特にアナログなものとして表れるのはTVシリーズから特異なポジショニングを誇っていたLPレコードです。それに加えて今回、音楽的なものでは、カセットテープが重要なキーワードになっています(カセットと言えば、同社作品『けいおん!』シリーズでのカセット回帰なミックスなんかに音楽ファンの遊び心がありましたね)。

また今作における連絡網の描写から、たまこは恐らくケータイを持ってないことがうかがえるのではないでしょうか。しかも家にあるのもダイヤル回転式固定電話。

そして極めつけは、もち蔵との糸電話ですね。

たまこを取り囲む電子機器は現実に則して考えれば異様なまでにアナログによっています。

 

対して、もち蔵を取り囲むのは、スマホMacBook Pro、映像編集ソフトは恐らくはiMovie?(もしかしてFinal Cut Pro?)とかなりデジタルによっています。

 

もちろんこれは北白川家と大路家の方針の差とも言えます。

言えますが、それがゆえに、"2人の物語"としては、重要なタームとして立ち現れます。

 

恐らくですが、たまこにとって周りを取り囲むアナログ機器は、お父さんとお母さん(ひいてはおじいちゃんや商店街の皆)に通じる自分にとって普通にあって、だからこそ成長・成熟に直面しなくて良いものとしてのメタファーではないでしょうか。たまこはいつまでも「幼いたまこちゃん」であって「北白川たまこ」という女性にはなり得ない。


一方、もち蔵の世界観はビデオカメラ片手に映像を編集するというナウいもの(早めの来場者特典とED映像から見るにもしかして、これ全編を通してもち蔵のビデオで撮られたホームビデオって言うかアマチュア映画の体を成そうとしてるのかも?ここは一回観ただけでは憶測でしかない)。

それは自分自身で必要なシーン、不必要なシーンを取捨選択していく行程を思わせます。


ここで、たまこの持つ包括的に全てを受け止めようとする視点が一旦、彼女の中の少女性を通っていれば良いんですが(一周回って商店街が好きである自分を「選択する」と言ったような)、なかなかそうはいっていない。その点、もち蔵の方が一歩大人な感があります。


2人の調停を成すのは、劇中相変わらず最もレトロな雰囲気を醸し出すレコード喫茶店です。ここで2人はそれぞれ苦いコーヒーを出されてクールダウンさせられます。

ここでレコード喫茶と言うのがまた渋い。もうここは暴論中の暴論ですが、今やレコードって、古さ・伝統の象徴である(つまり好事家的趣味の世界)と同時にナウいニッチな音楽好きにもフックのあるものです。レコードの売り上げって特に米国においては再び年々増加してますしね。国内でも一定以上のセールスのある現代的なアーティストがLP盤も同時にリリースするなんて珍しい光景ではなくなっています。

ここでお互いに、接合点があるんですね。レコードを通じて。伝統と古い町屋の少女とナウい現代的な少年の接合点、それがレコードなのです(超暴論)。


そして最後に、たまこが投げかける糸電話。これはダビさんに言われて気付いたんですが、この糸電話、そもそも、もち蔵のオカンがくれたもんなんですね。たまこ発案でなく。

ここにも2人の折衷点としてのアナログが見え隠れします。


とは言っても、うーん、ここら辺はさすがに一回観ただけでは自分でも暴論に過ぎると思います。


さて、最後に音楽的な面を少し。

TVシリーズのOPはもう明確に往年の渋谷系、特にPizzicato Fiveの名曲「マジック・カーペット・ライド」をタイトル的にオマージュした「ドラマチック・マーケット・ライド」という曲が展開されていました。

これまた明確に野宮さん加入以降黄金期を誇っていたPizzicato(特に『ボサノヴァ2001』『Overdose』『ROMANTIQUE '96』あたり)を思わせる軽快なホーンセクションとジャジーで突き抜けるまでにポップな曲調が印象的でした。


映画版でも、BGMの多くは一回観た感触ではフレンチポップスやモダンジャズ、オールドブリティッシュポップを通過したオシャレなものが多く、うーんPizzicatoを咀嚼してるなぁと何となく感じながら観ていました(後はCymbalsっぽいところもちょっとあったかも)。特に市内フェスに出た時のバトン部のBGMが坂本九上を向いて歩こう」をジャジーにアレンジした感じで素敵だった。


またTVシリーズのED「ねぐせ」はちょっとベッドルームミュージックの趣きさえあるミニマルなエレクトロニカ(スーパーカーmumのような)、多少の語弊を恐れず言ってしまえばインディトロニカ的なエッセンスさえ含んだもので、個人的にもプロフィールでも挙げてるように、アニソンの中ではめちゃくちゃツボなサウンドメイキングでした。

歌詞中に"コンタクトを外してみた 世界がぼやけて"と言うのがあるのですが、これは今作中でもコンタクトを落としたたまこの描写があり、この楽曲の時点で、映画版が制作されることを暗示しているかのように思いました(コンタクトの描写の時に歌詞通りやん!とツッコミを入れつつ。笑)。


逆にただ一つ残念だったのは、たまこの父ちゃんがお母さんに送った曲がかなり下北系ギターロック(譲歩したとして、80's末的な国内ビートパンク)丸出しの作風で、時代背景や父ちゃんの年齢に即すると国内のポップス/ロック史的に見ると整合性が取れてないところかなぁ。まあこれは重箱の隅を突つくような指摘と言えますが。


やはり、王道の少女漫画的プロット、成熟するということ、変化に相対すること、そして思春期の等身大の恋物語ということなどの点でTVシリーズよりも明らかに完成度の高い作品でした。

たまにはこう言った、王道の思春期・幼い青春物語を観て自分の高校時代とかを鑑みつつ、まったりするのも良いかなーなんて。そういう意味では、オッサンになればなるほど、じんわりくる映画だったと思いますね。もっと年を取ればより染みるな、なんて。



最後の最後に。

かんなは相変わらず映画においてもズバ抜けて素晴らしくキュートでした。それは単純に嬉しかったです。

個人的には(『けいおん!』シリーズのキャラを除くと)京都アニメーション作品においては最もキャラ造詣的にツボでした。

超蛇足にしてこれにて締め。苦笑