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ワールズエンド・サテライト

アニメ・漫画の感想・考察,アニソンレヴューのページです。京都の院生2人で編集・更新しています。

ポスト『魔法少女まどか★マギカ』アニメのストーリー表象

 

とても忙しくアニソンランキング以外の記事を書けない状態におりましたが、少しそれが沸点突破(オーバーフロー?)し過ぎたので、快復も兼ねて気ままに書いてみようと思います。

 

今期もほとんどの作品が終盤になりましたね。アニソンランキングの方は、今月半ばか末頃に更新しようと思っているのですが、個人的に今期観ているアニメはそれほど多くはないものの、なかなかストーリーがクるものがあって、多くの考察対象とされているのを見かけます。

その中でよく見るのは、やはりselectorの後編である『selector spread WIXOSS』と『結城友奈は勇者である』(『ゆゆゆ』)のものですかね。

 

この2つのアニメ、今では比較するのは無粋とされている感じですが、それぞれ公開された時は、『魔法少女まどか★マギカ』の影響下にあるのではないのかといったコメントが多くあったように思います。と言っても、作品内のシステムを握っている人格と、QBことキュウべえを並べて考えるようなことは今でも頻繁にあると思います。

実際、個人的にもこれらの作品は『まど★マギ』を連想させるなと感じていた部分が多かったです。今では多くの方と同様、それほど感じないものもありますが…

 

では、何が『まど★マギ』っぽいと思わせたのでしょうか。

自分でもあんまりまとまってないですが、これをこれまでの『ブラックロックシューター』や『京騒戯画』といった作品も含めて考えてみたいと思います。

 

 

 

『selector』および『ゆゆゆ』はその閉塞感と暗澹たる物語展開、個性的ながらも鬱屈したキャラクタ描写などから、「ハートフルボッコアニメ」だとか「鬱アニメ」だとかいった称号(烙印?苦笑)を得ているようです。

 

『selector』、『ゆゆゆ』共に個人的にはかなり独立した記事をもって考察してみたいとさえ思っているのですが、まあその前のワンクッションとして、このお題目で考えてみたいと思います。

 

『selector』は前編である『selector infected WIXOSS』の頃から、カードゲーム、WIXOSSセレクターとしてパートナーであるカード上の少女、ルリグと共に勝利を重ねれば、各々の夢を叶えられる「夢限少女」となれる…その為にセレクター達はバトルを繰り返していく、というストーリーでした。

しかし、実際にはその「夢限少女システム」がとんでもないもので、「勝手も負けても絶望」「QBの魔法少女システムの方がまだマシ」と揶揄されていました。簡潔に言えば、勝利を重ねて、夢限少女としての契りを交わしてもパートナーのルリグと身体を入れ替わるだけで、自分自身はルリグとなるというものです(ルリグであった存在はセレクターと身体を入れ替えて少女となり、その願いが叶うように行動する)。また、勝利できず敗北を重ねた場合、任意の願いは逆転し、その願いは二度と叶わぬものとなりセレクターとしての資格も失います…改めて書いてもマトモじゃないシステムですね。苦笑

しかもこれらのシステムはほとんどのセレクターたちには(もちろん視聴者にも)予め伏せられています。

 

このシステム自体は、『infected』の時から、まさにデカルト心身二元論以降、近代以降の「肉体」と「精神」の優劣だとかメルロー=ポンティ的な身体の実存なんかと絡めて、現代の加熱した生産主義・精神主義(最近は弱まってきてるけれど)に対してのシニカルなテーゼになると感じていました。

が、まあそのことは個別記事に書くとして置いておいて。

 

 

『ゆゆゆ』はそのちょっとのほほんとしたタイトルもあり、いわゆる日常系アニメのように思わせていて、実際には魔法少女もの(あるいは戦隊もの)に近い謎の生命体バーテックスと戦う「勇者部」の面々による戦いの日々…という幕開けだったのはいいものの、いざバーテックスを殲滅してみれば、勇者部の面々は身体機能の一部を失ってしまいます。これは勇者としての機能を最大限に活かすために「満開」(レベルアップor特殊スキル使用)することによって、「散華」を引き起こし、その代償として、身体機能を供物として差し出す=恒久的に失われる=身体障害者となるというシステムが働いていたことによります。

 

『selector』同様にこのシステムは「勇者部」の面々には伏せられていました。バーテックスと戦えば戦うほど、「満開」は避けられず、身体機能はどんどん欠損していくことになりますね。また、それを知った上でも、任意で勇者を辞める、ひいては自害することさえ不可能な身体となってしまいます。

このシステムもまた「魔法少女システムの方が死亡か魔女化という『終わり』があるだけマシ」「QBの方がまだ説明してくれてる方」などの声が聞かれました。これもある面では納得せざるを得ません。

 

個人的には、この『ゆゆゆ』、舞台が自分のホームタウンの一つである四国であること、そのただ一点だけでアナウンスされた時から観ようと思ってました(笑)。

いやあ、四国が舞台のアニメって本当にめちゃくちゃ少ないんですよね。例えば『瀬戸の花嫁』なんてモロに四国かと思いきやナガスミさんの実家は埼玉県なので、(元ネタであろう小柳ルミ子の同名曲のような)四国はほぼ映らない。先期の『ハナヤマタ』もよさこいなので高知かと思いきや、鎌倉だったので…

愛媛が自分のホームタウンの一つなのですが、『舞-HiME』(松山市とされている)のみ。しかもそれも推定舞台で、確定し切ってはいないし、愛媛ではそもそも放映されませんでした。苦笑

 

と、言うことで、アナウンス時から四国が舞台と銘打たれていた『ゆゆゆ』は話題性としても大きいだろうと思っていました。

始まってからも、隣の県ではあるものの、「おー観音寺!」とか「坂出かなー?」などと地元民っぽく感慨にふけったり、「勇者部」の面々がおうどん食べに行ってるシーンなどは「いやーうどん県やけどこれはないけん」などと思いながら観ていました。

しかし「満開」以降は…もうあまりに自分と重なりすぎて(勝手に重ねているだけですが)ちょっと恐怖心さえ覚えています。これもまた個別記事で書くとしておいておいて。

 

 

さてさて、これらのアニメは放映当初『まど★マギ』との影響が示唆されていましたし、僕自身もこれらはまさに、かの作品を通過した感性だと思っていました。

今ではそれぞれのアニメの特色が出て、最早『まど★マギ』と重ねて考えるのは無粋ではあります。しかし、ここではあえて無粋にも『まど★マギ』とこれらの関係性は何なのか?ということを個人的に同じく『まど★マギ』の影響下にあると初見で感じた『京騒戯画』『ブラックロックシューター』なども交えて考えてみます。

 

これらの作品の特に共通する点を卑怯にも箇条書きマジックも用いつつ、挙げていってみましょう。

 

・作品内設定は現代であり、実在する場所を連想させるような舞台を持っている。また、視点は基本的には特にヒロインである主人公と共にある。このことから不特定の視点や主人公をまたぐ群像劇のような作風ではない。

 

・主人公は中高生の少女であり、現実を超越した何らかの力を授かり、不可避の戦いへと投げ込まれる。その戦いは、負ければ死あるいは精神崩壊を招く。当初は正義たる主人公側と悪たるヒール側の二項対立の図式が視聴者へと投げかけられるが、実際にはその図式はミスリードであり、ほぼサバイバル系(勝ち残っても負けても後味が悪く、かつ、「誰か」と共に報われることはなく、1人だけが生き残る)とさえ言える構造へと変化していく様を見せつける。余談であるが、このことから、「ハートフルボッコ」や「鬱アニメ」と評されやすい。

 

・その戦いのシステムの全貌は序盤からキャラクタにも視聴者にも明示され得ない。ただし、システムを握っているゲームマスターの存在は早い段階でキービジュアル等のPR資料で明かされている。

 

・主人公は特殊な力を授かり、戦いへと投げ込まれる代償に、何らかの「願い事」を聞き入れられ、それが成就すると示唆される(もちろん敗退した場合には先述の通り、手厳しい仕打ちが待っている)。

 

・このシステムを個人の意思で簡単に廃止・棄却することはできない。なぜなら、作品内世界の根幹を担っているのは、そもそもこのシステムが存続しているからである。つまり、このシステムを唾棄して止めようと思えば、それは同時に作品内の世界の終わりをも意味する。よって、このシステムは数年あるいは数十年以上、作品内では続けられていたことであり、主人公はこのシステムの第一世代ではない。

 

・主人公はこのシステムにおいて、最もシステムに適した人間でありあながらも、同時にシステムのルールをも脅かす存在である。ゲームマスターはそのことを危惧しながらも、その壮大な力を戦場へと投入しようと主人公を選出する。

 

・結果的にバトルロワイアル系の構図をとるものの主人公は1人では行動しないし思考もしない。グループを結成し、仲間と共に行動することで作品内の倫理観を身につける。なお、グループにおいては「色」をはじめとして個人の特徴が強調され、そこでどんな役割を為すべきかは不確かながらも各々が自覚している。

 

・エンディングは主に作品内世界の根本の変貌(システムそのものの変革)であり、それは主人公が願ったものである。つまり個人の願い=世界の変容と言える。この事から、セカイ系的世界観を同時に保持していると言える。作品内において、主人公のグループとその関連グループの人物以外の存在…恋人やクラスメイトや先輩後輩、家族といった存在は大きく後景化している。

 

 

…いかがでしょうか?

もちろん、これは箇条書きマジックという卑怯な手段を用いたものなので多くの作品に当てはまるかと思われます。ただし、ここではあえて、その箇条書きとしたものから表象を取り出して、作品傾向を見ていこうと思います。

 

 ・作品内設定は現代であり、実在する場所を連想させるような舞台を持っている。また、視点は基本的には特にヒロインである主人公と共にある。このことから不特定の視点や主人公をまたぐ群像劇のような作風ではない。

→これは当然のようで意外と見落とされがちなことであるように思います。また、例に挙げた中で『京騒戯画』はこれに合致していないように思えるかもしれません。

しかし、あれも、ショーコ博士が高度なプログラミングをしていたり、コトの本来いた場所が現代であると示唆されるなど、「古典」の話ではないと言えます。

例えば今期では『暁のヨナ』などがありますが、情報技術が発達していないあの時代とは明確に違いがあります。ただ『京騒戯画』の場合、かなり群像劇的ではありますが。

『ゆゆゆ』もまた舞台設定は300年後と設定されています。ただ、その世界に生きる人々は現代から考えもしない倫理観を身につけていることもべらぼうな科学が発展している訳でもなく、機器もスマートフォンが使われているので、ほぼ準現代と言えます。

 

ここで重要なのは、舞台が「現代」であることです。「中世」や「近代」ではありません。これは後の「願い事」にも繋がります。「願い事」を持つのも、その願い事で救われるのも「ココ」であり、ここで生きる自分です。システム自体の変革を試みながらも、ここが変わらなければ意味がありません。

 

 

・主人公は中高生の少女であり、現実を超越した何らかの力を授かり、不可避の戦いへと投げ込まれる。その戦いは、負ければ死あるいは精神崩壊を導く。当初は正義たる主人公側と悪たるヒール側の二項対立の図式が視聴者へと投げかけられるが、実際にはその図式はミスリードであり、ほぼサバイバル系(勝ち残っても負けても後味が悪く、かつ、「誰か」と共に報われることはなく、1人だけが生き残る)とさえ言える構造へと変化していく様を見せつける。

→主人公生は押し並べて中高生といえる年齢の人たちです。これについては、視聴者の大きなお友だちの方々を奮い立たせるという商業的側面があることはもちろん否めませんが、作品内では『まど★マギ』の場合、「少女から魔女へと変貌させるためのエネルギーの移行は第二次性徴期の少女が著しいから」、『ゆゆゆ』の場合、「古来から儀式の供物として捧げられてきたのは年端もいかぬ少女であったでしょう?」などと説明されています。

この『ゆゆゆ』の提言はかなり、ハッとさせられました。確かに、歴史的にみれば中世以降、ミソジニーと言わないまでも、社会に蔓延してきた(今も、していると個人的には思う)男根主義たる風習の延長線上にこの表象はあるのではないのか?そして『ゆゆゆ』は、それをシニカルに描いているのではないか?と思わされました。

思えば『京騒戯画』を含む『まど★マギ』通過後と思える全ての作品は、女性がキーパーソンでした。それは、セカイ系とみられた『最終兵器彼女』や『イリヤの空、UFOの夏』、『ほしのこえ』なども同様です。これら(『まど★マギ』以降も含めて)の作品の影響元である『新世紀エヴァンゲリオン』は未見のため、分からないものの、この公式はあてはまらなさそうですが…

まあ、年頃の少女が苦難に顔を歪ませる光景にフェティッシュな感情を抱くというのももちろんあると思いますが…笑

 

また、最初こそ二項対立の構造を取っていても、実際にはそうではないサバイバル系の図式があるというのは、例えば宇野常寛さんのいう通り、昨今の主流でしょう。つまりポストモダン的な社会で、旧来的な、明確な善・悪がなくなり、自分自身の指針でコミットせざるを得ない(デタッチメントは許されない)という社会構造を反映しているというものです。まあ個人的には、この話も同意はするものの大手を振って喝采で迎え入れる感じではないですが、一面では的を射ているのではないかと思えます。これは、後の「願い事」とも絡んできそうでそう。 

 

 

 ・その戦いのシステムの全貌は序盤からキャラクタにも視聴者にも明示され得ない。ただし、システムを握っているゲームマスターの存在は早い段階でキービジュアル等のPR資料で明かされている。

→システムの全貌は魔法少女システムだったり、夢限少女システムのそれだったり、勇者システムだったり、アバターシステムだったり、鏡都だったりする訳ですが、明かされないことは大事だと思います。それが任意であるか不可避であるかは問わず、主人公やそのグループはメリット・デメリットの両面を十分に把握した上でそのシステムに乗っかかっている上ではない。中盤になって、視聴者にも明示され、愕然とするトリックです。

ただ、多くの場合(TRPGでいうところの)ゲームマスターの存在は明かされています。これは、QBだったり、繭だったり、大赦だったり、稲荷だったりする訳ですが(『BRS』のみGMの存在はチラ見せ程度で明示されていない)、よく見れば、初期から主人公たちとこのGMの関係は対等ではありません。ほとんど主人公は一方的に要求されるばかりであって、主人公側の要望は実際には聞き入れられません。しかも、それが遥かに遠い存在ではなく、本来主人公側をサポートする側の存在であることが結構恐ろしいです。

 

 

・主人公は特殊な力を授かり、戦いへと投げ込まれる代償に、何らかの「願い事」を聞き入れられ、それが成就すると示唆される。

→これも注意すべきなのは基本的にGM側が設定する「願い事」の許容範囲は、ゲーム内容に干渉するものではなく、あくまで一少女としての願いである事です。ゲームとは別世界たる現実世界の望みはほぼ叶えられるけれども、ゲーム側の世界への侵食は許されていないと言えます。

なので、現実世界とゲーム世界は乖離しています。例えば、魔女の存在は現実の世界の住人に認識されません。これは、ルリグの存在やアバターの世界、鏡都にも言えます。『ゆゆゆ』に至っては、バーテックスが出現したら、「樹海化」して現実世界の時間は停止します(『selector』でも丁寧に一般人がバトルの合間に入ったら中断される設定になっている)。これによって、相互作用的な二つの世界は、自由な交流を禁じられ、主人公たちは孤高のヒロインであることを間接的に浮かび上がらせます。

 

「願い事」は現実世界でしか叶えられないものであるのに、もう一つの世界は自分達しか担えない。この不平等さは、先のGMの存在とも関係しています。何かの「役割」を持った以上、その役割を発揮する場所では問答無用でその役になり切らねばならない…

『BRS』では、ここはより歪なものになっています。アバター世界で自分の代替となるアバターが敗退(死)することで、現実世界では、悩みや苦悩から解放される。その代わりにその想いは欠落する。

 

 

・このシステムを個人の意思で廃止・棄却することはできない。なぜなら、作品内世界の根幹を担っているのは、そもそもこのシステムが存続しているからである。つまり、このシステムを唾棄して止めようと思えば、それは同時に作品内の世界の終わりをも意味することであるからである。よって、このシステムは数年あるいは数十年以上、作品内では続けられていたことであり、主人公はこのシステムの第一世ではない。

・主人公はこのシステムにおいて、最もシステムに適した人間でありあながらも、同時にシステムのルールをも脅かす存在である。ゲームマスターはそのことを危惧しながらも、その壮大な力を戦場へと投入しようと主人公を選出する。

→これも『まど★マギ』ならば、ほむらの存在が、『selector』ならルリグの存在そのものが、『ゆゆゆ』なら園子の存在が(まあそれよりも東郷さんの存在が。笑)、『狂都戯画』ならば、明恵・八瀬・鞍馬の存在が、それぞれ伏線となっています。

これは元祖たる『まど★マギ』以降、GM同様、ほぼ崩れない前提でしょう。

そもそもゲーム内世界にはいかなる干渉も許されないという設定に説得力を持たせるために、歴代の犠牲者の存在は欠かせません。そして、またこのシステムから離脱することも許されていない。

ゲーム世界の法則に干渉すればするほど、それは作品の指針を示す亀裂となります(『京騒戯画』のOPで鏡の世界が回を増すごとにひび割れていったように)。

それまでの世界のルールとなっていた法則を塗り替えること。これが主人公たちの方向性たり得ます。そのためには、主人公たちが、一つ一つの物事に「なぜ?」という疑問を持ちうる存在でなければなりません。これは先述した中高生の少女たちがヒロインであることとも合致していることと思えます。

 

 

・結果的にバトルロワイアル系の構図をとるものの主人公は1人では行動しないし思考もしない。グループを結成し、仲間と共に行動することで作品内の倫理観を身につける。

 ・エンディングは主に作品内世界の根本の変貌(システムそのものの変革)であり、それは主人公が願ったものである。つまり個人の願い=世界の変容と言える。この事から、セカイ系的世界観を同時に保持していると言える。作品内において、主人公のグループとその関連人物以外の存在…恋人やクラスメイトや先輩後輩、家族といった存在は大きく後景化している。

→こういった『まど★マギ』以降と勝手に思える作品を観ている時に驚くのが、その主人公たちが、それなりに苦悩や葛藤はそれぞれ登場当初から持っているものの、グループ内の他キャラクタと比べて、あまりに無欲であり、ともすれば何を考えているのかさえ分からない存在に映ることです。

『まど★マギ』自体、まどかは他のメンバーと違い、明確な目標や願いは最終段階まで明かされませんでした(自分でも気付いてない)。これは他の作品でも同様です。

『slecor』では、るう子だけ『infected』の最後の段階でやっと夢限少女への願いを告げたものの、全体としてはその願いはほぼ全く強調されません。あまりに無欲すぎて、その出自も不確かな部分もあり、逆に不気味にさえ思えます。

『ゆゆゆ』では、友奈は一応、現実世界の人助けのためとも言える勇者活動を行っていますが、勇者システムに大きく動揺する吠や東郷さんと比べると、あまりに順応性が良すぎます。これまた不気味。

『BRS』では、マトは他のアバターを所持する少女たちが同年代の少女たちの確執や自分自身への絶望を抱えているのとは異なり、特段悩みや苦悩は持っていません。にも関わらず、アバターを持ち不可避の戦闘に駆り出されます。

京騒戯画』では、コトが異質な存在であると語られ、コト自身、それを認識し、現実世界に帰りたいと願いつつも、鏡都での明恵との生活に満更でもなさそうに過ごしています。物語中盤で実父・実母である稲荷やコト(古都)が登場してからも彼らとの共存を目指しながらものんべんだらりと過ごしています。

 

主人公たる主体は、主体を果たして持っているのか?という疑問さえ湧きうるくらい、不気味なほどに願いを持っていません。特に、まどかやるう子は他のゲーム参加者の末路を目にして、やっと願いを見出したものであって、それも元からあったものではありません。

一方、どの作品も、そのゲームに乗らざるを得なかった人物が出てきています。それは、ゲームに乗らなければ死んでいたという人物かゲームに乗らなければ身近な誰かが死んでいたという人物です。これらは、ほむら、マミさん、元ルリグのセレクターたち、吠、サヤ先生、明恵といった形で表れます。

彼らと比較すると、主人公たるヒロインは、なし崩しっぽくもあるものの多くは自分の意志でゲーム世界に足を踏み込んでいます。

 

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これらから何か言えることはないでしょうか。

 

ほぼこじつけ的に言えば、これらの作品に言えるのは、何も分からないまま(ましてや、自分が善と信じて成した行為がその裏側では悪にもなり得る可能性を伴いながら)多様な価値観がぶつかり合う世界に投げ込まれた少女たちの慟哭の歴史であることです。

 

主人公は序盤、そのシステムの存続を担ぎながら最強の少女としてゲームに参画します。しかし、その過程で、傷ついて死にゆく仲間や疑心暗鬼に陥り崩壊していく仲間を見て、システムそのものへ疑問を持ち出します。視聴者もこのシステムに光を見出しますが、主人公の辿る道を見て、これはマズいと思い出します。

 

またゲームマスターは願いを叶えてくれる主人公のパートナーであると思わせながら、その実、ゲームを存続させることしか考えておらず、主人公は優秀なコマだと考えているかと思えるように描写されます。

一応、断っておくと、QBは将来の宇宙のため、大赦は現存する最後の土地である四国をまわすためなどと言ったような功利性も持っています。もちろん、それはゲームに乗っかかった犠牲者たちには、通用しない理屈のように見えますが。

 

また、ゲームそのもののルールを変革した主人公たちが迎えた結末は、丸まま幸せであったかと言われれば、これも疑問が残ります。

確かに、まどかが宇宙の法則を変えて、魔女はいなくなりました。それでも、ほむらは終わらない戦いの果てに魔女化してしまいました。

マトは少女の苦悩を断ち切りたいという想いと裏腹に、その分身であるブラックロックシューターにインセインを殺させてしまいます。その結果、アバターの世界での戦いは続いていきます。

コトは稲荷(元の明恵)に家族を見つめ直す機会を与え、一見、鏡都は平穏を取り戻したように見えますが、鏡都の存在そのものが調和し得ず世界全体を崩壊へ導くものであるという問題は残ったままです。

このように主人公が持った希望の願いは根本の解決にはならず、あくまで自分とそのグループを短期的に救うものでしかなかったとさえ言えてしまうというのではないでしょうか。

 

唐突に不可避の戦いに投げ出され、拒否すればセカイが死ぬ、敗退しても自身の死か崩壊を迎えるしかない…

 

 

これは加熱した生産主義・消費主義・競争主義・成長主義のようなものの中で「個」が捨てられてきた社会を映し出しているようにも思えます。

いや、「個」は失われていませんね。むしろメディアも関係性も多様化する今日において、個人の領域や想いは強固されている。

しかし、それが果たして、本当に原初的な願いであるかは分かりません。『まど★マギ』以降の影響下にあると思われる主人公たちがゲームに参画する前は明確な願いを持っていないように、この社会の中で自己を見出そうと思うがゆえの願いであるかも知れません。

 

そもそもこれらの物語は中世のような階級が依然として強固に存在して、自分のいるコミュニティーの存続が命題であった時代ならば描かれないでしょう。「A村のB娘」は「A村B娘」であって、その名前たる固有名詞はそのコミュニティーしか通用しません。

しかし、今はその固有名詞を抱えて価値観が不確かな社会で「何か」を成し遂げなければなりません(そもそも生き甲斐なんて個人の哲学によるものなので、別に引きこもりでもニートでも今生きている実感とか欲望充足の確認があれば全然いいと思うんですけどね。何か社会のなかで自己実現することが最上の幸福のように思われていますしね)。

 

問題は自己実現を社会の中で果たさなければならないにも関わらず、その社会が不確かで、そもそも自分が自己実現だと思っているその想い自体、社会をまわすためのシステムの要請で成立してるだけのものかも知れない。しかも自己実現自体が非常に難しい。

近代のように、多くの人が同じ望みをもって多くの人がそれを満たすことで満足できる価値観が明示されていれば良いのですが、そもそも望みの選択さえ、自己責任論のように押し付けられている(負ければ、死か精神崩壊)。

 

こうしてみると過度に現代批判っぽく見えますが、もちろんそれだけではないです。

作品内世界ではゲームマスターの存在が多くの場合、明示されています。彼らは功利性を持っていますが、それはあくまで世界をまわすためのシステムの存続に終始するが故であり、個人の為にはほとんどクソの役にも立ちません。

 

そのことに主人公たちは気付いていき、そもそもの世界を変革する新たなルールを打ち立てます。その打ち立てたものは強固で、以降、何年かはそのルールが適応された世界が続くことになります。

また、こうしてみると全共闘時代だかの「革命」っぽさが出ちゃってきますが、もう一つ注目しなければならないのは、彼女らの敷いた新たなルールが必ずしも丸まま幸福とは決して言えないところです。

まどかのいない世界で、ほむらは魔女になってしまいました。宇宙最強のまどかでさえ、綻びのない新たな世界の構築には失敗したのです。

 

ここから、誰もが幸福となる世界は個人の願いからは決して訪れないことが言えるかも知れません。それは、あくまで「私」の喜びであり、他者は完全には救えないかも知れない。突き詰めれば、隣で戦ってきたグループの親友でさえも。最強の少女が過ちを起こすこともある訳です。

これはある種、全共闘時代からの「革命」っぽさやセカイ系へのアンチテーゼとも取れそうです。また、自分の願いが他者のそれをも絡みとるあまり、そもそも自己矛盾を起こしうることは『BRS』で描かれています。『京騒戯画』のように自分の小規模なグループを守るために、世界の調和を乱すことにもなりかねます。 

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自分個人の願いで他者や世界を救おうとしても、自己矛盾を起こしたり、そもそも自分が完全にミスのある設計を作ってしまう可能性がある。

誰かが幸福になれば、誰かが不運に見舞われるというのはよく言ったもので、椅子取りゲームの勝者の隣では、その椅子に座れなかった敗者が常に横たわっています。

その椅子に座って下す判断も必ず正しいとは言えません。僕は、自称高校受験の時に結構な受験戦争に巻き込まれた人間ですが(笑)、その勝ち取った椅子の上で踊っていたのは曲芸だったかも知れないと思います。まあ、エルドラの言う通り「まあしょうもない願いがあったんです。あの時はとても大切だったんですけどね…」。

 

そうすれば、救いはないのかと言われれば、それは、恐らくはほむらや東郷さんにあるのではないかな、と現時点では思っています。つまり、二周目以降の世界を生きている人たちに、です。

これは、『劇場版まど★マギ』や『ゆゆゆ』の続きを観なければ分かりませんが、先人であり旧友でもある存在が何を見出すかにかかっているような気もします。

 

また主人公たちの不気味なまでの無欲さにも感じるものはあります。それは、無垢さや純粋さとも言えますが(『まど★マギ』を観たときに、最初に思ったのはブログでも書いたように、これは「少女から女性へ」というテーゼである!とのことでしたがーこの側面は今でも強いと思っていますがーここまでくると最早、その認識では甘い何かのように思える)、それは許容を示す母となる主体のようにも思えます。

母性の下に、多くの心は救われますが、それが行き過ぎると他の主体を崩壊することさえある。母だって、間違えないことはない訳ですから。

何か、ちょっとエセ精神分析っぽくなってきたので余談的に書くと、「人間は言葉を覚えた瞬間に世界に裸のままに投げ出され、それがゆえに気を病む」というようなことを言ったと僕が勝手に解釈している(多分間違ってる。苦笑)割と有名な心理学者がいるんですけど、それに則って言えば、ゲーム世界に身を投じた瞬間から、主人公たちは無垢で最強の存在であっても不可能性と戦い続ける存在と言えるかもしれないな…ということですかね。

 

まぁやっぱりまとまってないだけあってグダグダしてきたので、後は『selector』だとか『ゆゆゆ』の個別記事に(書けたら)書くとします。

 

それにしてもあと数回分、楽しみなようで、怖いような不思議な気持ちですね…