読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ワールズエンド・サテライト

アニメ・漫画の感想・考察,アニソンレヴューのページです。京都の院生2人で編集・更新しています。

映画『ハル』レビュー(重大なネタバレあり)


 ここ数日アニメ映画やらなんやらをよく見ていたので、そのうちのひとつについて(まず?)なにか書いてみようかと。
 見たものとしては「おおかみこどもの雨と雪」「宇宙ショーへようこそ」「燃える仏像人間」「Halo Legends」「イヴの時間」「サカサマのパテマ」「星を追う子ども」「言の葉の庭」「ももへの手紙」「ハル hal」「マルドゥック・スクランブル 圧縮」「ねらわれた学園」などなど。

 今回はそのなかの「ハル」について。まぁごく簡単な感想を。京都舞台だし、たまこラブストーリーに引き続いて、って感じで。
 ところで以下の記事にはめっちゃ重大なネタバレを含みます。ご注意下さい。

 

 

 


 はじめにあらすじ。
 ロボットが普及しているらしい近未来、その京都が舞台。或る日、飛行機が事故で爆発し、「ハル」という男性客が死ぬ。この「ハル」、彼は、京都は西陣で雑貨店を営む女性「くるみ」の恋人であったのだが、「くるみ」はその「ハル」が死んでのち、彼の死から立ち直れずにおり、家の押し入れで塞ぎ込んでいた。藍染職人であるくるみの祖父「時夫」はそんな孫娘を案じて、自分の工房に置いているロボット「Q-01(キューイチ)」をハルそっくりのすがたかたちに作り替え、ケアセンターの医師「荒波」の手助けのもと、その「ロボハル」をケアセンターからの派遣職員としてくるみのもとへと送り込み、世話をさせることにする。

 くるみのもとへ赴いたハルは、「ロボットのハルなんかいらない」、と、くるみから拒絶されてしまうものの、しかしくるみが契約破棄の書類に署名をしないゆえ、彼はそこにとどまり彼女の世話をせんとする。かくして部屋の片付けをし始めたハル、彼はなにかが書かれたルービックキューブが部屋にあるのを見つけるのだが、それは、生前のハルとくるみ、彼等が自分達のしてみたいこと、願っていること、それをくさぐさ書いていったものであった。色を揃えるとそこに書いてある文字もわかる仕組み。ちなみにロボハルも、「くるみと暮らす」と書いてあるルービックキューブ――ハルの遺品――を持っているのだが、くるみの部屋にあったそれには、例えば「キリンを飼う」といったくるみの願いが書かれてあり、これにかんしてロボハルは、近所の子供達やケアセンターに入所しているおばあさんたちの力を借りつつ、これをキリンの模型を貰ってくるというかたちで叶えてやることができ、しかして、そうしたやりとりをとおして、くるみはハルに対して心を開いていく。そしてまた、彼女はハルに釦のかたちをしているメモリに保存されている映像や写真を見せるようにもなり、ハルは生前のハルとくるみが過ごした過去の日々を垣間見ることになる。ハルは、そういったできごと、そして、荒波や時夫をはじめとする人々との交流、これらを通して、初めはあまりわからずにいた人間の心、感情などを学んでいく。

 しかしハルはそんな日常のなか、人間だったハルの生前の知り合いらしい青年、「リュウ」と木屋町の箱ヘル前で出会うのだが、謎の組織に追われているらしい彼は、今のハルがロボットであることを知らないらしかった。またハルは、くるみの家に或る別のルービックキューブがあるのを見付けるのだが、そこには「ハルが暴力を振るいませんように」と書かれていて、リュウのことも併せ、生前のハルがくるみとの生活とは別にその身を置いていたらしい暗い世界、それを垣間見ることになり、衝撃をうける。時夫や荒波に話を聞くと、生前のハルは幼いころ体が弱く、心臓手術をうけたものの借金を返せず両親に捨てられ、過酷な不法労働をすることで生き延びてきたとのことであった。リュウはその頃からの親友らしい。そうした事情を知ったハルは、生前のハルがどんな人間だったのか、そして、仲のいいばかりではなかった生前のハルとくるみのその関係について思案しつつ、また彼は、ふたりが死に別れる前、店にあった雑貨をハルが勝手に売ったことを原因として、喧嘩別れをしてしまっていたことを知る。そんな日々のなか、くるみをより元気づけたいと思っていたロボハルは、ケアセンターのおばあさんからくるみを祇園祭に連れ出すことを提案される。

 そして祇園祭当日がくる(宵々々山から宵山までのいずれかの日?)。夕刻ふたりは鴨川を散歩するのだが、そこにリュウとその仲間らしき男達が現れる。リュウはくるみを指して、「俺たち、損、出しちまってさ……売っちまおうぜ」などと言う。くるみはハルと連れ立って逃げ出すのだが、いつしか夜になり、雨も降り出す。ふたりはどこかの水路脇の建物(夷川ダムとかそんな感じの施設っぽい?)に逃げ込もうとするのだが、踏み板が抜け落ちてくるみが川に落ち、ハルはそれを助けようとするもしかしリュウに追い付かれ、殴られ、組み伏せられてしまう。血と泥にまみれるハル、そんな状態になりつつも落ちたくるみを見やると、彼女の手首には皮膚が破れ、機械のコードが見えていた。そして、リュウは「そいつはくるみじゃねぇ、くるみは死んだんだ」と言う。ハルは衝撃を受けるが、しかし、彼はようやく真実を思い出すことになる。実際には喧嘩別れをしたあとあの事故を起こした飛行機に乗っていたのは「くるみ」で、死んだのは彼女のほうであった。しかし、くるみの死に責任を感じ、また、彼女の死を受けいられないでいるハルは、自身をロボットと思い込み、現実を忘れ、感情を抑え込んでいたのである。それを案じた時夫と荒波は「ロボット療法」をハルに受けさせるべく、キューイチをくるみそっくりに作り替え、かくして冒頭のごとき段取りで、彼をロボくるみのもとへと赴かせたのであった。すべてを思い出しつつハルはロボくるみを助けんとして川に飛び込み濁流に揉まれるのだが、そうした状況下で見た心象風景的な水の世界のなか、彼はくるみと会話をする。思いの丈を口にする。「みんな親切でさ……俺、くるみに会って、間に合った気がする……」。そうして彼等は口付けをするのだが、直後、くるみはハルを上方に向かって押し出す。ハルは「くるみ、ダメだ」というものの、ロボくるみはかぶりを振り、水に押し流されてゆく。しかして彼はリュウによって助け出される。しかしハルはまたロボくるみのもとへと行かんとするのだが、リュウから「行くな。生きてくれ」と泣きながら懇願され、川に飛び込むのをやめる。そして、くるみの死も受け容れるのであった。

 そして後日談、ハルはくるみの雑貨店を受け継ぐことになったのか、そこに住んでおり、食事を始める場面が流れる。「おいしいよ、くるみ」と言って、終劇。

 

ハル (マーガレットコミックス)

ハル (マーガレットコミックス)

 

 


 要約すれば、事故によるくるみの死を受け容れられずに自身をロボットと思い込んでしまっていたハルが、まわりの人々、そしてもとがキューイチであったところの「ロボくるみ」との交流によって、自身が人間「ハル」であることを思い出し、また、人間らしい感情を取り戻していく……という筋書きです。ひとことでいえば「喪失と再生の物語」。そうした主題に沿って用いられる道具としては、「釦型のメモリ」がありました。これはかつてハルが生前のくるみに渡したものであり、ロボくるみがまだキューイチであった際に、彼(彼女?)がくるみの入っているその棺よりとりだしたものでした。この釦、これは、過去に於いてハルがくるみに渡した際には、「暗くつらい過去をくるみに受け容れてもらえた」ことのあかしとして渡してあったようで、これについてロボくるみは、「これはハルの心臓なんだって思った」と語ります。対して今度この釦は、すべての過去を忘れてしまったハルが、その過去を思い出せるように、そして、くるみの死を受け容れられるように、といった感じの願いでも込められてか、ロボくるみより託されることになります。こうしたところには、相手のすべて、自分のすべてを受け容れ、そしてこれからを生きていく、といった感じの主題が、まぁ言葉としてもキャラクタから語られはするんだけど、見て取ることができるのではないでしょうか。或いはまた、この釦に関しては、「託す」という営為の象徴としても見られるようにも思います。ハルがくるみにそのメモリを渡したこと、そして次にはロボくるみが、これをハルの浴衣に縫い付けたこと、さらにはまた、濁流に揉まれてこれが浴衣から外れ、しかし、それを流されながらも摑んでいたらしいロボくるみが、その最期、これを再びハルに託して流されていったこと、こうした一切は、釦、過去、思い、これらを相手に「受け容れてもらう」ことに先立ってなされた、「託さん」とする営為のそれであるとして解せるのではないでしょうか。過言に過ぎる感もある? けれどこういうおこないはよくよく相手を試すかのごとき行為が附随するものだったりして、それは本作に於いても、ハルの言葉に、或いはロボくるみのふるまいに、見られるように思います。 

 また、そうした「受容」、なかでも誰かの「死」を受け容れるという題をめぐっては、物語の最後、ハルと時夫との会話、

「人は……死んだらどこに行ってしまうんですか」
「どこにも行かないさ、ずっと俺達のそばに居る。俺はいつも話し掛けてる、今日は暑いなぁ……とか、見ろよ、綺麗だぞ、ってな具合にな」
「それって独り言じゃないですか」
「そうか……そうとも言うな」

これも重要であるように思いました。大事なのは、時夫の言う「そうとも言うな」。これは、みずからのしていることの性質を(きちんと)わかっている人の台詞であると言えるでしょう。すなわち、妄想にも似ているけれどそれとは違う、意識的な、或るひとつの秩序のとりかた。

 ところで「ハル」という名前、作り替えられる以前の「キューイチ」というどこか男の子っぽい名前(型式?)、そして、細谷佳正さん演じる「ハル」の映画冒頭に於ける、アニメ『刀語』の(最初のほうの)七花くんのそれにも似た「感情がどこか抜け落ちている」かのような演技、こうしたものものが手伝ってか、視聴者としては、青年「ハル」のほうが「ロボット」であるという情報をつい鵜呑みにして見てしまうかもしれません。しかし、よくよく映画を観ていると、ロボットにしては足先で痒いところを掻くなど妙に人間臭いしぐさをするハル、或いは、感情を知らないロボットに接するにしては「人間なんてそんなもんだよ」と、感覚的にそれがわかる筈だとでも言わんばかり、あたかも人間相手に言い聞かせるかのごとく話をしていた荒波医師や時夫、メモリの映像を見た際の、空港に於いてキャリーバッグを持っているのがくるみだったということ、鴨川で襲われた際に妙に機敏な動きでリュウを制したくるみ、そしてそもそも、恋人が事故で死んだというのに、そんな孫娘のもとへとその恋人そっくりのロボットを送りつけるという時夫たちの考えの「えげつなさ」など、この「どんでん返し」に気付けるための布石はさまざまに打たれていたように思います(私は勘がニブいので、ずいぶん人間臭い行動をプログラミングしてんだなぁ、とか、そんなふうに考えていましたが)。冒頭附近の「くるみは笑わなくなった。眠らなくなった。聞かなくなった。なにも食べなくなった。泣かなくなった」というハルの独白も、ハルの死を受け入れられずにそうなったというていで話されてはいるものの、しかし、改めて聞いてみれば、物故した人物についての描写であるともやはり捉えられるのです。とかとか。

 ところでまた、ハルとリュウ木屋町で再会したときの会話も、リュウが真実を知っていて、しかしハルはそれを知らない、という場面での会話であることを思えば、なんらの不自然さもなくなります。リュウがくるみを指して「売っちまおうぜ」と言ったこと、これについても、ハルとリュウが非合法な労働をとおして生き延び、現在もテロ組織かなにかに関わっているらしく見える描写がなされている為についつい騙されてしまいますが、リュウがあくまで親友としてハルを心配していたことを思えば、非常に乱暴なやりかたであったとはいえ、ハルがくるみの死んだショックを受け容れられずに彼女そっくりのロボットを買い、それによって喪失感を埋めている、しかしそれではいけない、「過去」に囚われるのではなく、「これから」を生きてもらわねば、と、そのように考えての行動があれであった、そのように解することも可能でしょう、というか、そのほうが自然であると思います――しかしまぁ彼等が現在テロにもなんにも関わっていない、とする証拠もまた描写はされてませんが。謎の組織はヘルス経営の方々ってだけなんだろうけど、「リュウさん」とか呼んでる奴いたし、やっぱり少なくともリュウはいまだに「そっち側」ではあるんでしょう。ところで、ハルを助けたときのリュウ役の宮野真守さんの号泣の演技、これは迫真というかなんというか……すごくすごかった。しかし宮野声で「ハルゥー! ハルゥー!」、って、どこから聞いても『Free!』の凛ちゃんにしか……。
 
 最後にひとつ、このロボットSF作品に於いて唯一登場したロボット、「キューイチ」について、少しく。
 私が気になるのは、果たして彼(彼女?)――或いはこの作品世界に於けるあらゆるロボット――が、この世界のなかでいかなる存在として人間達から捉えられているのか、ということです。別言するなれば、「キューイチ」に「心」はあったのか、という問題。
 例えばキューイチと共に時を過ごしていた時夫、彼には、キューイチを人間と変わらず扱っていたような、そんな描写が頻々と見られました。例えば、荒波からロボット療法なるものの存在を知らされ、「おまえならあいつになれる。頼む……」という場面。或いは、上記引用したハルとの会話に於いて、「今日は暑いなぁ……とか、見ろよ、綺麗だぞってな具合にな」と言っている場面。この台詞は、ふたつの写真立て、すなわち、一方は「くるみ」の写真、また一方は「キューイチ」をはじめとする藍染工房の面々の写真、これらの絵に重ねて発せられたものです。時夫の言葉にある「見ろよ、綺麗だぞ」は、おそらく藍染について語ったものであり、であればこれは、もちろん孫娘のくるみに語ったものとして解することも充分自然である一方、工房で共に過ごしてきたキューイチ(の霊?)に対して語りかけたものとして解することも、やはり自然であるように思います。すなわち時夫のふるまいからは、少なくとも彼自身はキューイチをいかにも人間と変わらぬ存在としてみていたらしいこと、これを見て取れるように思います。
 心なき機械にわざわざ話し掛ける、或いは懇願の言葉をかける、そんな人間など(あまり)いるまい、とでも考えてみると、キューイチには心があったのかもしれない、と、そのようにも言い得るようには思います。しかしかと言って、それで本当にキューイチに心があったということの証左にはならない。大切にしている道具やなにか物品に対して思いやりと慈しみの言葉をかける人、そうした人を想像するのは想像に難くないでしょう。しかしまぁこういった「心」の問題に関しては、本来ならば何を以て「心」と言うのか、ということも俎上に載せねばならないのでしょうが、ここでは措きます。からだに対する心、志向性、自律的な思考、意識、記憶、精神(性)、感情、認知、などなど――そもそもいまこうして挙げた「心」に関係するっぽいものの内実とか妥当性を考えなければならないであろうことも含めて――、そういうことまで考えるのはちょっと面倒なので。
 けれどさしあたって、本作の「キューイチ」即ち「ロボくるみ」に関して指摘できることとして、彼女が作中で色々に吐露したその心中――「私、ハルのほんとうのつらさをわかってなかったんだと思う」、「わかってあげられなくて、ごめんね……」、「この世界の、ぜんぶから〔ハルを助けたかった〕」、「〔ハルの釦を指して〕これ、見たとき、ハルの心臓だと思った」、「ずっと一緒にいてくれる……?」、などなど――、或いはその行動やふるまいーー押し入れに逃げ込む、ハルが揃えたルービックキューブを見やって物思わしげな表情を浮かべる、リュウに売っちまおうぜと言われてムッとする、水路に落ちて助けを懇願するような表情を浮かべる、などなど――、これらがすべてロボット療法という目的のもと、くるみの姿を擬した「キューイチ」によって「演じられた」或いは「実行に移された」姿であったということを挙げられるように思います。この「演技」を巡ってキューイチの「心」の在りや無しやを考えると、この作品に於いて或る「不気味さ」が現出する可能性の出てくることを言い得るでしょう。つまり、もし心などなかったとした際には、「プログラムされた行動を(機械的に)実行に移すだけ、すなわち「心」が存在しないにもかかわらず、或る誰か人間の行動やふるまい、ひいては人格や精神にまで精神療法的な影響を及ぼしうるようなふるまいをとりうるところの、まさに「人間」にしか見えない「ロボット」がこの世界には存在する」ことになる、ということ。或いは別言するならば、そんなものなどないにもかかわらず、いかにもそれがひとつの人格、ひとつの心を持った人物であるかのごとく、我々をして思わしめる技術が発展しているということ。我々は「ない」ものを「ある」と見る。
 個人的にはそれはそれで、本作が有している或る「不気味さ」に合致しており、いいのではないかと思うのです。すなわち、華やかなりし京の都の裏にあるくさぐさの現実、しかも普通に生きているぶんにはおおよそ見えないであろう現実――日本発の航空機がテロによって爆発せられ、心臓が市場に出、日本人子弟が人身売買に出されるなどといったそれ――、こうした「表」と「裏」との乖離とでもいったような不気味さを表すひとつ要素として、「人間と違わぬ姿をもつ人間ならざる心なき機械」なるものを登場させること、それはそれで効果的であるように思うのです。
 しかしこれは穿ち過ぎかもしれません。キューイチには人間のごとき心を持っているかのような描写、例えば冒頭、飛行機の爆発を知って頽れる時夫を気遣うかのようなふるまい、或いは、荒波がロボット療法と口にしたときサッと振り返って反応したその様子、時夫から「あの子を救ってやってくれ」と言われて頷くその動作、こうした描写が種々見られます、が、しかし、これも果たして「心」の存在の証明になるかどうか。そのようにもともとプログラムされていたのだ、とか、そんなふう言われればそれまでなわけで。ただ、私としては、濁流に揉まれながらの心象風景的な水の世界で、ハルを水上へと送り出したのが「機械のコード」の見えている「ロボくるみ」だったことにはひとつ、意味があるように思います。単純にハルの心象世界なら最初そうであったように、ずっと「本物の(?)くるみ」をえがけばよいであろうところを、ハルが「ダメだよくるみ。行っちゃダメだ!」と言って以降、彼女は「ロボくるみ」になっている。現実に帰還するさいの淡いの部分だから、そしてハルを助けたのも、もとの目的に照らして彼を救うという行動を実行に移しただけだから、といった感じの解釈とて成り立つようにも思うし、個人的にはそのほうがこの場合は好みなんですけれど、果たして本作に於いて、ロボットに心はあったのかどうだったのか。けれど、もし、心があったとするならば、最後、ハルから「キューイチ」それ自身に対してなんらの思いの吐露もないというのは、不自然であるような気もします。長くなったし、ぶん投げて終了。

 感想としてはこんなところで。見終わってみると、吉浦康裕監督作『イヴの時間』とか、長谷敏司作『BEATLESS』とか、こんなあたりを見返したい気持ちが湧いています。

 

 

BEATLESS

BEATLESS