阿部共実『空が灰色だから』総評・全話レビュー感想(前編:総評)
今回の記事は前編・後編の構成をとります。前編は『空が灰色だから』を全巻読んだ上での総評レビュー、後編は全ショートの感想です。
ちょっと遅れましたが、阿部共実さんの新単行本『ちーちゃんはちょっと足りない』『ブラックギャラクシー6』同時発売を記念して、デビュー作『空が灰色だから』をレビューしたいと思います(『ちーちゃん〜』も買って読んだのでまたレビューします)。
『たまこラブストーリー』をダビさんと観に行った日に彼から借りたんですけど、そのダウナーかつ極度にサイコティックでありながらキュートでポップな感性に、一足どころか数足遅れてドハマリしちゃって、一気に読んで10年ぶりくらいに、少年漫画大人買いしました。
僕は中学生の頃から10年くらいSyrup16gというアーティストを愛聴していますが、正直に言って、最もSyrupに合う漫画とも思いました。
では早速全巻の総評をどうぞ。主に哲学/表象・精神/心理学的な観点から簡単にみていきたいと思います。
空が灰色だから コミック 1-5巻セット (少年チャンピオン・コミックス)
- 作者: 阿部共実
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 2013/03/08
- メディア: コミック
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10代女子を中心に、人々のうまくいかない日常を描くオムニバス・ショート。コメディか、ホラーか、背徳か、純真か、説明不要の"心がざわつく"思春期コミック。
これが全巻裏表紙に書かれているキャッチコピー。
注目したいのは"うまくいかない日常"と"心がざわつく" というフレーズ。この2つはかなりポップな作風を捉えているように思います。
先に書いてしまえば、この作品、「身震いするほどグロステスクで恐ろしい『普通の現実・日常生活』の内に潜む"不安"をサイコティックながら超ポップにコーティング」した大傑作です。
言いたいことは沢山ありますが、まずデザイン・視覚面から見てみましょう。
コミックを手に取って驚くのが、全巻に共通する、ジャケット、キャラクターのバックの無数の水玉模様。
どうしても、アウトサイダー・アートの巨匠、草間彌生さんの作風を思い出さずにはいられません。
僕は現代アートについては浅学極まるところですけれども、草間さんは幼少期から患われた統合失調症の症状、幻覚・幻聴とそれによる"自分の中に何かが入り込んでくる感覚"に対抗するために、作品全体を水玉で埋め尽くすという手法を取られていました。
ここでみられるのは、自他境界の不明瞭さです。さらにキツい言葉にすると、自我機能の脆弱性と言えるかも知れません(この"自我機能の脆弱性"は自分も大学病院でバウムとロールシャッハを受けて心理検査判定表をいただいた時に、書かれていてギョッとした言葉です)。
それを表すかのように上に挙げた1巻の表紙のキャラ、大村いちごの持つ傘は一部分だけ水玉が浸食してきています(3巻のもね)。
これだけ取ってみてもそのポップなキャラクタデザインに反して、不安定な感覚が浮かび上がります。
ほかイラスト面では、第21話の語彙がおかしくなっていって遂には万華鏡のように描写される不破さん、第32話でこけた委員長を取り囲む無数のクリオネ、第44話において女やもめが酩酊して寝た夢の中に出てくる水中に咲く血の花・大地から生える無数の子どもといった描写。
あたかもサイケドラッグや幻覚剤をキメた人が見た多幸的な幻覚のように映ります(慢性的なアルコールの過剰摂取でもこうなる…らしい…バッド方面に)。ドラッギーな感覚が浮かび上がります。
また随所に盛り込まれるクリオネやナメクジ、虫といった生き物が群集する描写。
何かに偏執的になってしまって一点しか見られなくなってしまう、そしてそれに自分自身が支配されてしまうのではないかというパラノイックな感覚さえも浮かび上がります。
それらは例えば近年の久米田康治さん的なデジタルっぽいナンセンスキュート、アニメ『日常』みたいな丸っこくて大きな目で描かれるキャラデザとウェブ漫画『ミッションちゃんの大冒険』のような意図的に不安感を煽りながらも可愛らしいデザインで描かれています。あ、基本的に主人公キャラはほとんど女性です。
ちょっとヤン・シュヴァンクマイエルの不条理アニメ的な作風をも思わせるかも。
しかし、これらはあくまでバックの描写であって、物語の主軸ではない(だからこそ余計、不気味にも思える)。
物語の主軸は先にも書いた身震いするほどグロテスクな日常生活という"不安"と不条理的に描かれる人間関係の齟齬(コミュニケーションの失敗あるいはディスコミュニケーション)。
ここからは学が浅いながらちょっと勉強した哲学的知識とフィーリングでしか捉えていない精神医学/臨床心理的な観点でもみていきます。なお自分は医者でもなければ心理学専門でもないままのレビューなので医学的には一切アテにしないで下さい。苦笑
全話を通して、根底にあるのは、不安障害的な感性のように思います。神経症的というか。
まあ不安障害といってもかなり広義ですが、特にみられるのは社会不安障害っぽい感じや、強迫神経症的な感じ。
いや、他にも、素人知識でみれば色んな精神不調がみられます。
自分の悪意が"投影"している感じとか、関係妄想(あるいはより軽度の関係念慮)とか、妄想性障害とか、肥大した自己愛とか、こきおろしとか、被害妄想とか、抽象化・観念化とか色々キータームが見られます。
しかし、基本的な軸は、不安障害や神経症的に見える感性です。
超簡単に言ってしまえば、不調になってしまうまでの"気にし過ぎ"の感性ですね。
作中、多くのキャラクターがコンプレックスや不安からコミュニケーションを図ります(あるいは稀に自分の世界に引きこもっちゃいます)。しかし、その内に潜む肥大した自意識、"気にし過ぎ"、アイデンティティ不安から、多くのコミュニケーションは失敗します(ので、最終ページを開いて報われた時は心底ホッともします)。
これは現時点で、なぜ"気にし過ぎ"の感性が異様に強く通底しているのかうまく言語化できません(後編:全話レビュー書いたら分かるかも?)。でも素人目では統合失調症的な感じやパーソナリティ障害(境界例)的な感じとかよりも、神経症的な感じが出ていると思います。
また台詞を見ると作為的に文法が崩れた言葉を喋るキャラも多いです。同じ言葉の反復、文脈と文脈との混合、韻を踏むようにリズミカルだけれど意味がない単語の並び、主語と目的語が反対になっているなどなどから奇妙な言語感覚のあるキャラも多いです。ここらへん、鬱屈したキャラ造型と相まってSyrup16g的な感じも思わせます。
鬱々してて言語感覚が若干変だけど、それゆえに陰惨すぎない(たまに悲痛さを加速させるようでもある)ブラックユーモアのような感覚も。
さて、難しい言葉(しかも聞きかじりの。笑)が並びすぎました。
それでは、この作品はいわゆる鬱漫画なのか、鬱作品なのか??と言われれば、それについては恐らくノーでしょう。
なぜなのでしょうか。
それは、阿部さんが、独自の視点で作中における社会や主人公たちの人間関係を徹底的に不条理的なものとして描いていると同時にそれをポップでキュートなキャラクターたちに向き合わせることで、逆説的に現代の不安を描き切っているからです。
ですので、この漫画は不条理漫画として位置づけられます(僕の見方では)。
不条理とは何でしょうか。
それは(wikiを参照すれば)、「世界に意味を見出そうとする人間の努力は最終的に失敗せざるをえない…人間にとって不可能」な感じです。
ちょっと難しいですね。
簡単に言い換えましょう。
不条理な世界とは「意味のない世界」「"僕"・"私"がいなくても回っていく世界」です。
作風に則して言えば、「いくら主人公が"気にし過ぎ"ても、そんなのお構いなしに動いていく世界」です。
自分がいなくても、気にし過ぎでも動いていく世界って怖いですね。
しかし、阿部さんは不条理をちょっと読み替えています。
阿部さん的不条理は自分なんていても変わらない社会、けれど、その中で自分がいてもいいとどこかで許されている世界です。
それを表すように、作中では、ストーリーがかなりのバッドエンドを迎えるものはそれほど多くないです。むしろ、その不条理に直面したがゆえに、かなりハッピーエンドを迎えるお話も多いです。
とはいえ、それがゆえに不安もまたでてきます。
作中、主人公たちは、神経症的に何かに意味を見出そうとします(例1:1巻の書き下ろし漫画では、図書館で勉強している中で主人公は周りの人たちの咳払いが自分以外の人たちに共通する「暗号で話し合ってるみたいだ」と形容。 例2:第40話で主人公は友人の些細な言葉、特に意識してないツッコミに裏があるのでは?と疑いだしてどんどん落ち込んでいくetc…)。
そこには意味なんてありません。みんな「そんなにあなたのことなんて気にしてない」んです。
しかし、一歩、この意味があるのでは?という疑問が湧いてしまったら、どんどん自意識が広がって、混乱します。これが、いわゆるドツボにはまる状態です。
そこで涌き上がる生理的感情が不安です。
(意味・条理なんてないにも関わらず)もし何かが起ってしまったら嫌だな…もしあの人の言ったことに悪意があったら…これがこうなって自分がああなったら…。。例えば、不安はこのように現れます。
ここからまたちょいとだけ難しい言葉になります。
19世紀の哲学者、キルケゴールは『不安の概念』という本で、こう書いています。
「不安とは自由の目眩である」
個人的には超かっちょいいフレーズなんですが(笑)、これはどういう意味でしょうか。
簡単に言ってしまえば、不条理=条理・意味がない世界ならば、あらかじめ決められた運命なんてもんはないと言えます。
という事は、僕達は、基本、何をしようが自由です。その自由の中でどんな行動を取るかは自分で選べます。
クッソマジメに生きるもよし、一日中家で酒飲みながら寝てるもよし、何でもありです(まあその自由を本気で謳歌するためには相応の責任ってもんがいるんですが…と言ったのはサルトルという哲学者ですが)。
と、すれば、僕達は何してもいいし何にでもなれるんですな。僕たちはいつも自分の行動を自分で決めることで、将来の可能性に近づくために自己実現してると言えます。
しかし、その可能性って本当でしょうか?
世界に意味なんてないんです。ならば、自分が定める可能性(こうなればええなー的な未来)を保障してくれるものもないんです。
可能性なんて将来のもんで、そんなもん自分では決めれません(現実って運要素強いよね!苦笑)。なんで、可能性は、"無"と言えます。簡単に言えば"未決定"です。
自分は自由に何を選んでも良いけど、その結果、どうなるかまでは分かんない。運ゲーですし。不安です。
自由、可能性を前にして、目眩がしてくる…これがキルケゴールの言う不安です。
さて、話を『空灰』に戻しましょう。
主人公たちの多くはくるべき将来の可能性を前にしてたじろいでいます。
それを表しているのが執拗なまでに出てくる「こんなダメな自分は彼氏もできず、結婚もできず、家庭も持てず、子どもも持てないのでは…」というモノローグ。
このレビューを書くにあたって、他メディアさんのレビューを2,3読んだんですが、意外とこの「将来への不安」について書かれているものがなかったので取り上げてみました。
個人的には結構、重要なタームと思います。
最後は身震いするほど恐ろしい「普通の日常」ってやつですね。
まあここまで読んでいただいた方はぼんやり分かるかと思いますが、自分の存在を無視してもなお"正常"に回る日常って一歩引いてみれば、かなりグロテスクです。
その日常にも意味はないんですしね。でも主人公たちは学校なりバイトなりしています。決まった社会のシステムの中で生活しているんですね。まあそこにも突き詰めていけば、意味なんてあるのか、となりますが。
よく、普通のメンタルの人と鬱を患っている方と対比すると後者の方がより、冷静に理論的に社会の規範やコミュニケーションに対して虚無であると答えると聞きます。
極論を言えば、実際、そうでしょう。突き詰めていけば、一つ一つの物事やシステム・規範に意味なんてない。虚無です。だからこそ身震いするグロさが垣間見えるということですね。
ということで、この作品、自他境界が曖昧な主人公たちが神経症的に不安に駆られながらもどうにか生きていく作品と思います。先にも書いた通り、そのポップな描写の数々と阿部さん流解釈によって、コケティッシュな感じにも描かれているので、鬱漫画というよりも不条理漫画です。
作品タイトルは『空が灰色だから』。最初期の集中連載では『空が灰色だから手を離そう』でした。
思うに、このタイトルも言い得て妙。
「空が灰色だから」と主人公たちが「疑って決めつけている」だけでは?
メタ視点でみれば「空が灰色『だったら』」…という不安を描いた大傑作です。