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ワールズエンド・サテライト

アニメ・漫画の感想・考察,アニソンレヴューのページです。京都の院生2人で編集・更新しています。

映画『たまこラブストーリー』レビュー(ネタバレあり〼)

 

 あんこ姫のセーラー服姿を見れて歓喜したことを反芻しつつ書くネタバレ記事がこれ。

 

 ちなみにあんこは本作に於いて、とても「おねえさん」ぽく描写されています。告白しての後悔に絶叫をあげたもち蔵に対して、「よっ」、って言うところとか、どうも北白川姉妹は母性的な少女として描かれるんだな、といった感じ。非常にすばらしい。

 

 本記事の構成は、①物語の概略、②全体的な感想、そして最後に、③だいぶ穿った、というか、私の妄想のめちゃくちゃ混じった感想という名の暴論、の3部構成となっております。3番目はムダに長いです。

 

こいのうた

こいのうた

 

 

 

①物語の概略

 

 高校3年生になったたまこ達は、進路について話をし始めたり、或いはバトン部を引退する前に最後の市内フェスに出ることを決めたりし、日常の端々にはそれが徐々に変わりゆくというそんな兆しが見え始めていました。

 そんな或る日、もち蔵はみどりに煽られ、東京の大学への進学を希望していること、そして、幼時よりずっと抱いてきた恋情、これらをたまこに告白することを勢いで決めてしまいます。部活の終わった夕暮れ時、もち蔵はたまこを鴨川へと呼び出し、とうとう告白をする。たまこはこれに非常に動揺して逃げ帰るのだけれど、その後、もち蔵とは今までどおりには話せなくなり、また、部活に出てもバトンのキャッチの練習はうまくいかない、さらにはそんななか、おじいちゃんが餅を喉につまらせ病院に搬送されることになり、そのとき付き添って来てくれたもち蔵から「告白のことは忘れてくれ」と言われてしまったりするなど、かなりぎくしゃくした日々を過ごすことになりました。しかしたまこはそれと同時に、仲好し4人組に相談するなどしながら、徐々に自分の気持ちと向き合っていきます。

 

 彼女はそんな或るとき、父である豆大が若かりし頃に作った「恋の歌」のカセットテープを聞いていて、その続きに、母であるひなこの声で歌が吹き込まれていることに気が付きます。それは、豆大がひなこへの恋心を歌った「愛の歌」、これに対するひなこからのアンサーソングで、お世辞にもうまいとは言いがたい、非常に音痴な歌ではあったけれど、たまこはそれを聴いて、自分も大丈夫だと、ふと、そう思うことができ、そしてその翌日、バトン部最後の講演に臨んだ彼女は、できずじまいでいたキャッチも成功させ、有終の美を飾ります。

 

 そして明くる日、学校がインフルエンザで休校することになって、たまこはそれを連絡網最後のひとりであるもち蔵に伝えなくてはならなくなったのですが、しかし彼女はそれをせず、もち蔵が学校へ来てしまうようにしむけて彼とふたりきりになれる状況を作らんとし、告白への返事をしようと画策します。夜、道子さん経路で糸電話を入手して、次の日、いざ学校に行ってみるのですが、しかしもち蔵は来ず、かわりにみどりがやってきて、「もち蔵は東京に転校した」、と、彼女はたまこにそう告げます。実際にはもち蔵はオープンキャンパスに行くだけだったのですが、しかし彼が本当に転校してしまうと思い込んだたまこは、京都駅へと走り、新幹線へと乗り込む間際のもち蔵を見付け、彼を引き止め、糸電話を投げ渡して「わたしも、もち蔵のことが好き」、と伝える……大略こんな感じ。

 

 ちなみに「南の島のデラちゃん」のほうも少しく書くと、王子、チョイちゃん、デラちゃんの、ふたりと1羽で餅を搗いている。そんななか、ミスターが「桃」のつもりで作った捏ねたおもちをチョイちゃんは「おしり」と勘違いし、破廉恥だと言って彼をぶん殴る。デラちゃんは次に「おっぱい」にしか見えないおもちを作り、しかも王子はそれをみて「私はそういうの好きだよ」などと言ったりして、チョイちゃんは非常に困惑、デラちゃんをぶん殴るのだけれど、しかし鳥が作っていたのは自分を模した餅であり(チョイちゃんには「とさか」が「乳首」に見えた)、王子もそれを踏まえたうえで「好きだ」と言っていた。勘違いに気付いたチョイちゃんは紛らわしいと言って、やはりミスターをぶん殴る……というお話。微妙に本編とも繫がっています。

 

 

 

②全体的な感想(+TV版をみていたときの感想)

 

 「恋愛」と「成長」、このふたつを軸に、たまこともち蔵、或いはそのまわりの人々、彼等について多角的に、そしてそのつながりを有機的にえがかんとした作品が本作、『たまこラブストーリー』だと言えるでしょう。そのストーリーは、たまこやもち蔵をはじめとする各キャラクタの丁寧な心情描写に満ち、また、そうしたキャラクタ達の絶妙な配置も相俟って、恋愛の「甘酸っぱさ」や或いは「せつなさ」、これらをこれでもかと醸し出し、そして、そうしたものを経てきた(はずの)われわれの側には、恋愛に進路に一生懸命だったという過去を思わせ、或る種「はずかしさ」を惹起させてもきています。いろんな意味で心に「クる」映画であると言えるでしょう。

 

 そしてその「成長」と「恋愛」、或いはそれに関連する、「戸惑い」、「怖れ」、「覚悟」、「逡巡」などなど、本作に於いては、そういったものを象徴する様々なモチーフ――林檎、タンポポ、夢へとむかって一歩を踏み出しつつある友人達、ぐるぐる廻る玩具の機関車、スタンド・バイ・ミーE.T.のパロディ、キャッチできないバトン、インターバル撮影のごとく映されるふたり、砂糖をいれない珈琲、落としたコンタクトレンズ、動画コレクションを消すかの逡巡、歪んだ糸電話、などなど――が、めくるめく煌めくようにスクリーンを彩っており、恋愛に搾ったそのストーリーの甘酸っぱさ、せつなさもさることながら、そうしたところに込められた意味についても様々に想像をかきたてられ、思考をめぐらす楽しみも与えてくれています。場合によっては、頻々と登場するタンポポが最後に綿毛へとなっていること、或いは、スタンド・バイ・ミーE.T.のパロディ(「小指に誓う」と「トモダチ」)を行なう映研部員など、そうしたものに込められた象徴的な意味をそう読み取ろうと思えば、明るい恋物語として大団円を向かえた(?)本作に潜む、別れの暗示などとこれを考えることもできるかもしれません。私としてはわざわざそうは思いたくないけど……。

 

 また、そういう意味では、映画全体、或いはひとつのシーンをとっても様々な目線で見ることができ、自分好み、人それぞれの見方を許容してくれるということを思えば、非常に複雑な構成をしている映画であるとも言えるでしょう。例えば、たまこともち蔵、或いはそれを見るみどりの思いを中心に見てみると「恋愛もの」乃至「失恋もの(?)」としてみれるし、たまこと仲好し4人組、たまこと部活仲間、或いはもち蔵と映研部員達のやりとりに注目すると、夢と同時に別れのせつなさをそこに孕んだ「学園もの」乃至「青春もの」となる。または、たまこと北白川家、もち蔵と大路家、或いはそれら両家の関係や、場合によっては商店街の皆とたまことの関係、これらについてみてみると、「家族映画」乃至は「群像劇」として、本作を捉えることもできるのではと思います。

 

 しかしTV版のときは、そうした様々の要素ゆえ、もち蔵やみどりのたまこに対する恋心を描くのか(=「恋愛もの」)、友達との日常を描くのか(=「青春もの」、というより「日常系」?)、「歌探し」を描くのか(=「家族もの」)、或いは商店街の群像劇を描くのか、どこがその焦点なのかわからないような話になっていて、まぁ軸がブレていたとも言い得、しかしそれに関しては、安易な類型化を拒む姿勢と言うか、或いは、人々の現在いま「顕在している」つながりそのものをえがくことによって、各人の人柄を立体的にえがきだそうとする姿勢がこれだった、とか、そうした目線(など)で見ることは可能だったと思います(適当な感想)。

 

 しかして、そうして描かれてきた各話の中心にいて、多くの人々がつながるその結節点としてあった「たまこ」だけれど、しかしTV版の彼女は、キャラの立っている他の人物達に比べて、なんとなく自己主張が薄く、また、誰かと接している際も、彼女とその人のあいだになにか「ズレ」が生じている、といった感じを我々に抱かしめる人物として、少し奇妙な(不気味な?)かたちで造形されていたように思います。謂わば、彼女の性格や人間性について語られていないわけでもないのに、彼女に関してなにか語られるべきこと、それがなぜか語られない、或いはこちらが感じ取れない、そういった感じを惹起させるという意味での「空虚」、「欠落」、「欠如」といったふうの感覚、これを内包した人物としてえがかれている、みたいな。それは、物語に於けるその「結節点」的な彼女の立ち位置からも感じられると思います。すなわち、この作品に於いて、物語に或る程度の統一感を付与せんとするのなら、人々のつながりの中心にいる「たまこ」のキャラは、超越的に皆(と話)をまとめ調停する父性的な人物としてえがかれるか、或いは、皆の存在やその多様性をそのままに許容し称揚する母性的な人物としてえがかれるか、こうした両極が考え得ただろうと思うのですが、この「後者の側」に彼女はおり、商店街(とおもち)を非常に愛する少女として造形され、そしてまた、人々の繫がりを担保するものとしての「商店街」、それを象徴的に体現している人物としてもえがかれていた。すなわち彼女は、群像劇的な『たまこまーけっと』に於いて、(各話の)物語を成り立たしめるための「舞台」、或いは「スポットライト」役を担っていた、ということ。しかし、そういった意味でたまこは、ひとりのキャラクタとしては自律していない、どこか非人称的な立ち位置にいたと言え、そしてひいてはそれゆえの奇妙な人物造形であり、それが彼女にまつわる妙な「欠如」感の理由であった、と、考えられると思います。ひとことで言おうとすると、母性的な非人称の人物、みたいな。なんだかよくわからない物言いですが。

 

 しかしここで、そんな非人称的な母性を、はたしてひとりの少女が担保できるのか、できていたのか、或いは、その条件を満たしつつ、ひとりの人間的な人物としてえがき得ていたか、となるとそれは、彼女のその奇妙な欠落感ゆえに、ちょっと微妙であったかな、と、思うのです。それを「たまこの母性」であるかのごとくしてえがく、というのも。

 

 そしてまた、そうした商店街の内部にいる者としてもち蔵も、たまこに愛の告白をせんと画策したところで、彼女が舞台であり、スポットライトであり、商店街の母性的な象徴である以上、彼女をめぐるその布置のゆえ、これを内破することはできなかったわけです(ヘタレでもあったし)。他方で、外界からの闖入者たるデラちゃん(達)は、そういったことを踏まえれば、たまこを中心に商店街の皆が織り成していたそういう布置を攪乱させる契機となりえたのかもしれませんが、しかし、そうはならなかった。勘違いは勘違い以上のものにはならず、たまこの母性様の働きの及ぶ「商店街的」な空間の広がりと共に、デラちゃんもそこに組み込まれてしまった。

 

 けれど、そんなデラちゃんの不在で始まる『たまこラブストーリー』、これは、そういった日常の終焉(を予感させるところ)から始まっていたのだ、と、もしかしたらそう言えるかもしれません。そうやって変わることない日常が終わるところから始まるこの物語は、少女の時代、子供の時代との別れ、そしてそこからの、大人の女性、さらには「母」へとなっていくその途上にある物語、と言え、たまこもそれに併せて(?)、ひとりの等身大の、進路に恋に将来に悩む可愛らしい女子高生へとなっていて、そうした彼女の、或いはまたもち蔵の、仲好し4人組の、その心の機微、これの丁寧な描写は、見ていて心に迫るものが強かった。

 

 しかしこうして書くと、TV版を見て、そこで構築されていた世界を頭にいれたうえでの感想がこれ、といった感じになってるな……。もちろん映画単体で見ても、細かな心情描写、アニメというより映画的な演出の珍しさなど、色々と楽しめるだろうとは思うのですが、個人的には、TV版で奇妙に感じた部分の補完になる、逆に言えば、映画版での理解が深まる、という意味でも、TV版を見て、そのとき抱いた感覚をまた胸中に抱きながら見たほうが、より楽しめるのではないかな、と、思いました。そんなこんな。

 

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③それでは以下、ムダに深読みしているくせに細かいところはなんか適当な感想。

 

 書いているうちにムダに長大になってしまったので、先に結論だけ書いておくと、たまこにとって、「汎愛的母性様の世界からの離脱=喪われた母からの自立=そうしたすべてを担保していたもち蔵の引力圏からの離脱」になっていて、そうした様々の意味を含みこんでの「成長」、そして、そこから始まった「新しい恋」だったのであり、ゆえに心を打つのだ、みたいな感じ。

 そしてあとは、たまこともち蔵の関係性、これに関して、「死んだ母」すなわち「ひなこ」によって能わしめられた「汎愛的な世界」に対して他方、「生きている母」すなわち「道子」によって可能ならしめられた「ふたりだけのエロティックな世界」がある、という対比をおもしろく思いました、とか。

 

 それでは、鴨川デルタ脇、飛石のうえで、もち蔵がたまこに告白する場面から。

 東京への進学を希望していること、そして、長年に渡って伝えられずにあった恋心、これらを伝えんとしてたまこを呼び出したもち蔵に対して、その当のたまこには、未来を志向しているもち蔵(や他の仲好し4人組)と比したときに、どこかなにかが「ズレている」ような、そんな雰囲気がある。進学など未来のことを話さんとするもち蔵、しかし対してたまこちゃんは、「もち蔵、ここの飛石で、わたしを驚かしたことあったね」、と、ふたりの幼時を唐突に思い出しては話の腰を折り、今度は丸い石を見付けると、そのときちょうど思案していた、あんこちゃんや女友達にはその構想を語っていたところの「おっぱいもち」を連想して、「いま、おっぱいもちっていうのを考えててね」、と、それを「女子ではない」もち蔵に語りそうになってしまう。もち蔵が「男子」であること、それにはさすがに彼のほうを振り返ってその姿をみた瞬間に気が付き、おっぱいもちの話自体はそこで切り上げはしたものの、しかし、そうして思い出さねば改めては思い至らないほど、「もち蔵」、この少年の存在は彼女にとり、「女友達」とそう変わらない意味合いで近しく(すなわち遠く)あり、また、向かい合った餅屋に生まれた幼なじみとして、その関係性が或る種ひとつの完成を見せているという意味でも、やはりその存在は近しく(ゆえに遠く)ある。すなわち、「もち蔵」という存在はここでのたまこにとってはまだ、男女の別の(さして)ない子供時代に於ける、近しい誰かのひとりでしかない。

 

 ところでこの「おっぱいもち」(と「それに見立てた小石」)に関して、これらは謂わば、子供時代に於ける無邪気さ、分け隔てのなさ、或いは大人の庇護下にあるといった感じをあらわし、そしてまた、そうしたものに彩られてある「(子供の)ミニマルな日常」、こうしたものを象徴しているとも考えられる、と、思います。それは、おっぱいもちを考え出すきっかけになったできごと、すなわち銭湯に於いて、胸の大きな女性と自分(の胸)とを比べていたことからも窺える。つまりは、大人の女性に対置される、子供としての自分。しかし、ここでの「おっぱいもち」は同時に、そうした「子供らしさ」を担保してくれるものとしての「母性」の象徴であるとして、そのまま解釈してもいいでしょう。すなわちたまこは、「おっぱいもち」なるものを「作ろう」とし、それを自分も体現できるか、自分が「母」たる存在になれるか、それを試さんともするわけです。これらを綜合していうなれば、ここでの「おっぱいもち」、これは、「子供」としていまだ生きているたまこが夢見る、「大人」の、「母」の、その複合的な象徴である、と、そう解釈できるようにも思うのです。

 

 話は戻って、もち蔵とたまこがどこかチグハグな会話を交わしているこの場面、ここに於いて描写されているのは、「新たな未来」への一歩を踏み出さんとし、みどりとの応酬の結果ではあれこれまで抱いてきたみずからの恋情に決着をつけんとしているもち蔵の姿と、そしてそれとは対照的な、その時点ではいまだ「過去」の写しとしてのミニマルな「現在」をしか見ていない、しかしてそれの延長にあるであろう、これもまた現在からの変化の少ない「未来」をしかまだ見れていないという、そんなたまこの姿です。ここの時点での彼女はいまだ、「子供時代」を生きている。それをよしともしている。そしてもち蔵も一瞬、告白をあきらめかける。

 

 しかしてたまこは、もち蔵の話にあまり耳を傾けることのないままに、今度は自身の話をし始めます。「白くて、やわらかくて、あったかい、そんな「おもち」みたいな人にわたしはなりたい」。彼女はそのように語るわけですが、そのとき、「彼等」の念頭に浮かんでいたのはいったい誰であったのか。ここでたまこの台詞と共に画面に映っているのは、彼女の母親、既に鬼籍に入っている「ひなこ」のその過去の姿であったけれど、果たしてこの思い出、これは、「たまこ」と手を繋いでいるひなこが「こちら」にも手を差し伸べている、すなわち、「もち蔵」から見た彼の視点になっており(たぶんそのはず……)、であれば、ここに於いては、「白くて、やわらかくて、あったかい「おもち」」という言葉を「ひなこ」に結びつけているのはむしろ「もち蔵」である、と、そのように受け取ることもできるでしょう。それが意味するところのもの、これに至ってはもはや妄想……もとい推察をするよりほかはないわけですが、たまこが「憧れの人物像」をあらわす言葉として用いた「おもち」という表現、それを聞いてもち蔵が「ひなこ」を想起したというのであれば、これについての解釈としては、もち蔵にとっての「憧れ」がなにより「ひなこ」に結び付いていたということ、或いは、たまこの憧れがひなこに結び付いている、と、彼が解釈したということ、いずれかの場合が考えられると思います。そのどちらの場合が該当するのであれ、ここでは(たまこにとってだけではなく、)もち蔵にとっても、この「ひなこ」という存在が「母」という形象を想起させるものとしてとりもなおさず大きいものであったということ、これがそれとはなしにほのめかされている、と、解することとて可能でしょう。

 

 それでは、対してたまこは、果たしてここで誰を想起したのか。劇中、仲好し4人組の談笑している場面で語られるのですが、幼時、たまこはむしろ餅嫌いであり、そんな彼女がもちを好きになったのは、ひなこが亡くなった際、誰かが、顔をえがいた餅を動かしながら、「そんな顔してたら、ひなこちゃんに笑われちゃうよ」、と、そう励ましてくれたのをそのきっかけとしています。父親が励ましてくれたのだろう、と、たまこは初め、当時をあまり思い出せずにおり、そのように考えていたのだけれど、告白をされてのち、もち蔵を意識するようになってから、そうして励ましてくれたのが彼であったこと、そのことに彼女は或るとき思い至ります(ただしそれ以前、ぼんやりしていたその想起のなかでも、もちを動かす手は父親のものにしては幼いものであったし、また、「母さん」乃至「ひなこ」と自分の細君を呼ぶ豆大に対して、思い出のなかの誰かは、彼女を「ひなこちゃん」と呼んでいました、たしか)。彼等の経たそうした出来事、これを踏まえるのであれば、たまこが「おもち」という言葉で捉えんとした人物、それを、かようにして励ましてくれ、また、現在の自分を立脚させている重要な契機であるところの「おもち」をもたらしてくれた人、すなわち「もち蔵」であると考えることとて可能であるかもしれません、が、しかし、鴨川でのその告白時点に於いては、たまこはまだそのことを思い出せてはいないのであり、であれば、「ここ」で彼女の語った「白くて、やわらかくて、あったかい「おもち」」というのは、彼女がその憧憬の念を向けている特定のだれかにまつわるなにか特徴を比喩的に語った言葉というのではなくして、むしろ、そのなんとはなしに抽象的なものいいが表すとおりの、曖昧で、そして漠たる、ふわふわとした「憧れ」の感情をそのまま吐露したのがこれなのだ、と、そのように受け取るほうが自然であるようにも思われる――などとは書いてみたけれど、以上、まぁ、私の妄想です。

 

 というのも、パンフレット中の「北白川ひなこ」の説明文を見たら、「たまこがなりたい「おもちみたいな人」」と書いてあったからであり、そしてまた、たまこが憧憬を向けているその相手を「ひなこ」であるとして解するほうが、のちの場面、すなわち、「恋の歌」のカセットテープに吹き込んであったひなこのアンサーソングを聴き、たまこが前へと進むことを決心する、そうできるとふと感じるというあの場面への繫がりを理解しやすくなるからなのですが、しかし、そうであるとするならば、告白の場面に於いてなぜ、たまこの台詞に対してもち蔵視点の映像を組み合わせたのか、という疑問も湧いてきます(もしかしたら、映研部員でもあるもち蔵の作った「映画」が本作、『たまこラブストーリー』だから、といった感じの解釈も成り立ちうるのかもしれません。……けどやっぱりこれ勘違いだったらどうしよう。責任はとりかねます)。

 

 ひとつ言えるであろうこととしては、以上の私の解釈(妄想)に幾分かの妥当性があったとしたときに、それがふたりの共通の記憶であるといえようこと、別言するならば、それが現在のたまこともち蔵、彼等の関係を全部ではないにせよ一部は担保しているといえようこと、すなわち、彼等がともに憧憬を向けている存在、「ひなこ」というとうに喪われた母親の、ふたりにとってのその重要性をあらわしているのがここなのだ、と、そのようには考えられないでしょうか。幼時より彼等は仲がよく、またもち蔵は、たまこに対して「餅屋のしらたまぁー」と、からかうような態度をばかりとっており、その照れ隠しのごときふるまいからは彼女への恋心を早くに抱いていたようなそんな節を見受けられはするけれども、しかし、たまこがその年齢にしては妙に「うぶ」であり、また、(それを担保しているところのものがこれなのだけれど、)彼女が商店街に於ける「母」様のものを象徴する位置に置かれていたということもあって、もち蔵とたまこのその関係には、商店街の内部にあって成立する「幼なじみ」として、別段それ以上でも以下でもない、「変化が生じえない」ようなたぐいのものとして描写されてきたという、そんな感じがある。

 

 しかし、彼等のそうした関係性はより以前に、その様相を、或いはたまこの布置を、のちのち大きく変えうる契機として、或る出来事をそこに孕んでいた。それとはすなわち、「ひなこの死」、そしてその際の「もち蔵の励まし」。つまり、たまこともち蔵の関係は、ひなこの死により、「幼なじみ」のそれ以上のものへとなりうる「きっかけ」を含み込むことになっていた、という解釈、それがここで言いたいことです。彼等は「ひなこ」という「欠如」をともに経験し(或いは抱え)ている。それは、もち蔵にとっては「母」という形象を以てまさに想起されるところの「ひなこ」であり、また、たまこにとっては、喪われた憧れの対象として、「おもち」を以て想起されねばならないところの「ひなこ」です。そうした「共通の欠如」があったというそのゆえに、彼と彼女の関係には、たまこを商店街に於ける「母」といった感じのその象徴的位置から引き降ろし、彼等を同じ位相に立たしめる、そうした可能性が「実は」包含されていたのだ、ということが示され、また、そこからさらに、「もち蔵の励まし」、これのあったがゆえに、たまこはひなこの死を受け止め、ひなこが愛していた(はずの)もちを好きになり、さらには愛し、果てにはその「愛」を以て現在の自分の立脚点、すなわち「アイデンティティ」とまですることになったのだ、と、こういったことを指摘できるようにも思います(ぶちあげまくりの感想)。ゆえに、彼女のいだくその「愛」、これは、謂わばたまこ自身の存在する条件であり、そして、おもちに対してであれ、商店街に対してであれ、友人達に対してであれ、何にせよこれを等しく汎愛的に(過剰に)行使することによって彼女は、現在いま作り上げている自分であることができているのだ、と、そのようにも言えないでしょうか。なぜならそうして、なにかを愛すれば愛するほど彼女は、母親が喪われたことへの代償を払えるから。

 

 ゆえに、たまこにその欠如を強く抱かしめてしまったのは、これも、もち蔵であったと言えるでしょう。なぜなら、もち蔵がその営為をとったことにより、「ひなこ」と「もち」とは密接に結びつけられることになったのであって、しかもそこからはさらに、もともと餅嫌いだった彼女がいまや見せるようになった、「おもち」への渇仰、拘泥、或いはもはやアイデンティティとさえ言って差し支えないであろうその状態、こうしたものまで生じてしまったわけで、例えばそれは、TV版ほどの激しさではないにせよ、「いつも必ず弁当にもちをいれてたたまこがそれを入れ忘れるなんて!」、といったみどり(?)の台詞とか、ただの石をまで「おっぱいもち」に見立てるたまこの行動にも窺えるところです。たまことしては「好き」なつもりかもしれないけれど、見ている側としては「餅狂い」とまでつい見てしまう彼女のそのこだわりようは、好きになったというそれにかかわる来歴を知ってしまうとこれを、餅好きだった(であろう)母親を喪ってしまったがゆえの強迫的な代償行為のごときとしてついつい見てしまいかねないし、そしてもし、そう考え得るとするならば、彼女がもちに関してこだわればこだわるほど、それは、彼女が無意識裡に上記の欠如に囚われていること、これを意味してしまうようにも思われる(下衆の勘繰り)。

 

TVアニメーション「たまこまーけっと」エンディングテーマ ねぐせ

TVアニメーション「たまこまーけっと」エンディングテーマ ねぐせ

 

 

 しかしなんにせよたまこにとり、「母親の死」を乗り越え(或いは抑圧し)、現在の自分を構築するに際して要された「立脚点」が「もち」、(ひいては「もち蔵」)にあることに変わりはないわけです(たぶん)。「ひなこ」、「もち」、「もち蔵」と、彼女の胸中にあって意識される程度はそれぞれ違うけれども、これら実際的に(そして実は強烈に)連関している三者のうち、(TV版で見せた)あれだけの激しさを以て「もち」を愛し、その「おもちを愛するということ」が契機となってたまこの汎愛的な世界が立ち上がり、その彼女が現在いま送っている「子供時代」、ミニマルで変化の少ないそうした世界が生きられているというその以上、ここに変化を生じさせんとしたときにはこれら三者のすべてに関してなんらかの出来事が生じなければならない。たまこは、いま居る世界の地平のすべてから、いちど、離れなくてはならない、すなわちこれが「宇宙の入口」とは言えないでしょうか。ここでちょっとみどりに言及しておきますが、ゆえに彼女は常にそして既に、もち蔵に対して一歩退いたところにあらざるをえなくなっている。

 

 要するに言えば、ここまでのたまこ(ともち蔵)は、「ひなこ」という憧れの存在の「死」に、そして、それを乗り越え埋め合わせるための「もち」への愛に、ひいては、そこから生じる汎愛的な自身の姿勢に、さらには、そこからもたらされたところの(商店街の)「母」的な布置に、結局囚われていたのだ、と、そのように言えるかもしれません。そして、そうした状態が生じるにあたってその最初の契機となったのは、とりもなおさず「もち蔵」であった。「もち蔵」あっての「現在のたまこ」だったのだ、ということです。或いはまた言うなれば、ここまでの彼等は、或る種のすれちがいを経験している、ということも言えるように思います。母親の喪失に揺れる自分、これをかつてのもち蔵が調停してくれたそのおかげでたまこは現在を過ごせているけれども、しかしそれによって彼女は同時に、餅狂いの少女、汎愛的母性様の人物ともなってしまっており、そのゆえにもち蔵の恋心、すなわち対等な目線で抱く排他的な好意というものが、結果彼女に届かないままになってしまっている。

 

 で、話を告白時点に戻しますが、しかし、ここからたまこは続けて、「お母さんにはあと一歩のところで追い付かない」といったむねの言葉を発します。たまこの抱いたその感覚、これについては、彼女がいまだ「恋」を知らぬがゆえである、と、そう解することもできるでしょう。家に於いては家事労働をこなすがごとき、そして商店街に於いては(というより物語上の要請としては)皆の存在をありのまま許容するかのごとき、そういった母親「的な」役割をたまこは果たしてきたものの、しかし彼女は「母」ではない。誰かに恋をし愛を育み、その人と共になり、或いは子供を生んだりもし、そうした果てに「母」となったひとりの「成熟した女」なのではなくして、彼女はむしろ、果たさざるをえなくなった「役割」としての母「代わり」をただ未だこなしているだけであり、その位置付けはむしろ「子供」のそれだと言えないでしょうか。彼女が抱いた母への疎隔の感覚は、そうした「子供」のままでは「母」、すなわち「大人」になれない、「成長」しきれない、という、そうした感覚があってのものである、と、そのように捉えることができるようにも思います。要するにたまこは、子供として日常を送ってゆくこと、それの限界閾へと達している。或いは換言すると彼女は、果たさざるを得ないがゆえにおこないそしてそこに於いて生きているところの汎愛的な世界、すなわち、商店街のみんなとも、友達とも、南の島の人ともひとしく仲好しであるような世界から、より特定の誰かへと向けた愛を抱く時季、これに到達している。

 

 そして小石は川へと落ちる。子供時代が過ぎてゆく。それは、或る不可逆的な変化がたまこへと齎されること、すなわち、一度はその思いを告げることをあきらめかけたもち蔵が、やはりその恋情をたまこに伝えること、これによって生じます。「俺はたまこが好きだ、めちゃくちゃ好きだ」というもち蔵の告白、それを聞くに際してたまこは、「おっぱいもち」に見立てた小石を川に落とす、すなわち、ミニマルな日常そのものであった子供時代への訣別の契機に突如として見舞われることになり、川へと落ち、「水を浴びせかけられる」かのごとき思いをし、そして「コンタクトレンズをなくす」、すなわち、それまで自明に思えていた変化の少ない日常を見ることがあたわなくなり、他方で、これら告白に関わるその一連の顛末の果てには、誰とでも繫がりうる装置などではない、もち蔵とのふたりだけの或る種エロティックな(契機としてあった)「会話」をこれまで担保してきた「糸電話」、これが歪んで少しベコベコになる、すなわち、ふたりの関係に不可逆的な変化が訪れたこと、或いは訪れること、これが示されることになるわけです。

 

 ちなみにそうしたエロティックな愛の関係について、これは(当然のことながら、)商店街の皆にもある。週末に映画を見に行く約束をし、旦那とキスをし、なにかの舞台のチケットをとれたと話し合う。みな仲好くやっている商店街の人々であっても、これは特定のだれかとしかしない排他的な営為であって、告白された戸惑いに揺れるたまこは、そんななかで、こうした商店街の皆の姿に(あらためて)気が付くことになる。汎愛ばかりの世界ではないわけです。みな、自分達の生活のその裏側部分(?)では、自分達だけの世界がある。しかしこう受け取ると、かおるさんと清水屋は……まぁ、なんていうか、清水屋って「或る意味」すごくいいポジションにいますね、TV版での立ち位置もあったし。

 

 ところでその「糸電話」に関して、これはTV12話で明かされていたことだけれども、糸電話をふたりのために作ってくれたのは大路家の母、「道子」であり、それは、窓越しに夜中まで話し込んでしまい、豆大に怒られてしまったふたりを思案してのことでした。「「これでこっそりしゃべれるよ」、って」。この出来事がいつのことなのか、それは作品内で明示されていない(筈な)のでわかりませんが、いつの頃からか始まったふたりのそうしたエロティックな関係、これを担保する道具である「糸電話」を彼等にもたらしたのがこれもまた「母」であるという事実、これは、たまこの生きる汎愛的世界のその契機となったのがまた「母」であったことと、対比的に捉えられると思います。すなわち、「死んだ母」に対して「生きている母」によって、彼等のつながりは断ち切られることなく、その関係を次の段階へと進ませうる契機が担保されることになっていた、ということです。道子は本作に於いては、最終部、もち蔵にみずからの思いを伝えんとして色々と画策しているたまこの為に、お守り代わり、験担ぎのための「糸電話」を息子の部屋から持ってきて、彼女に渡してくれています。

 

 話を戻しますが、告白されてしまったことによってたまこは、この場面より以降、もち蔵がいなくなることへの寂寥や、或いはそれに際して抱くことになったかもしれない恋しさ、こういったもののあるというそれ以上に、いまの自分が「もち蔵あってのもの」であるということにあらためて気が付くことになっていったのではないでしょうか。それは、もち蔵が部屋のカーテンを閉め切っているのを見て少しへこむ描写や、或いはより重要なシーンとしては、おじいちゃんが餅を喉に詰まらせ救急車で搬送されるとなったとき、豆大がおらず、しかしもち蔵が「俺、乗ります」と言ってくれたところ、こことも繫がります。もちを齎してくれて以来それまで閑却していた、「もち蔵はいざというとき助けてくれるひとだ」、ということ、彼女はそれにここで気が付くことになったのだろうと思います。

 

 しかし、そののち病院で、もち蔵は「告白はなかったことにしてくれ」といい、身を引くかのような態度をとる。これは、行動がバグるほど困惑し、また、そのうえさらにおじいちゃんが倒れて心労を抱えることになっているたまこ、彼女のその現状を慮った結果として出てきた言葉だったのでしょうが、これを言われたことによってたまこは、バトンをキャッチできないままでいることと併せて、彼の思いをどのように受け止め、どのように対処し、そして自分がどのように心を保てばよいのか、ということもそうですが、同時に、告白をうけたその「自分」とはなんなのか、彼に対する「思い」はどうなっているのか、そして、彼なしの「自分」を果たしてどうすればよいのか、など、そうしたことについても考えることになったのでしょう。バトンの練習のさなか、体育館でみどりに対して思いを吐露していたところや、或いは、中庭で仲好し4人組と話をし、かんなから「磁石のN極とS極」について言われていたあたりに、たまこの葛藤の様子が窺えます。それまで、皆からそれぞれの進路について聞かされても、自身については「わたしは「たまや」」とだけ言い、或いは「一生おもちだけ丸めて過ごすの?」と聞かれても、それについてなんらの疑問も抱かなかったらしいたまこが、もち蔵については「いろいろ考えててすごい」と言い、彼の部屋のカーテンが閉じられていることに困惑し、ずっと一緒だった彼が自分から離れていってしまうことに動揺する。そうやって、「だれか」の挙動、「だれか」の思いが気になるというのは、翻って「自分」の挙動、「自分」の思いについて考える、ということに通じる(、と思う)。

 

 しかし、思えばここで、たまこは「もち蔵から離れていく」、或いはまた、もち蔵が助けてくれたという過去を思い出したゆえにそれへの感謝や、彼の長年の気持ち、こういったものに囚われ、彼と付き合わなければならないという「義務感」に駆られる、という、そういった可能性もあったように思います。前者はともかくとしても、もし後者の展開が来ていれば、彼女は結局、「もち蔵」によって能わしめられた「汎愛的世界」、期待に応えねばならないという「子供の世界」にやはり囚われたままになっていただろうけれども、しかし、そうはならなかった。たまこはここで、弁当に必ずいれていたもち、これを入れ忘れるなどします、或いはわざといれなかった。すなわち、「もち蔵50個ね」などと言い、「もち」と「もち蔵」とのつながりを無意識裡に強く感じていた彼女は、それによって「もち蔵」からの(そして或いは「母親」からの)「独立」、これを図ることになったのであり、そしてそのうえで、いつしか彼女は、もち蔵の恋情に答える気持ちになっていた。幼なじみだし、とか、頼れる男だと再認識したんだ、とか、たまこがもち蔵の思いを受け容れる気になったその理由は様々に忖度できるでしょうが、こればかりは曖昧に捉えておきたいように思います。理窟ばかりでもないだろうし。

 

 そして最後、たまこの成長は、もち蔵の全然いないところでなされることになる。それの契機としてまずあったのは、ひなこの遺したアンサーソングを聴いたこと。この歌は、豆大からの告白を受けたひなこが返答できずに逃げ帰ってしまって、そののち彼女がピアノを弾き弾き自分の思いを伝えんとして録音したものでした、が、しかし、ひなこは非常に音痴で、録音されていた歌は、お世辞にもいいとは言い切れないものであった。しかしここで、たまことしてはむしろ、そうやって憧れの母、喪われたがゆえにその影を追っていたひなこの音痴でカッコわるい部分を見、それによってあまりに理想化していた母親像から脱することができたと言え、変に気負う必要はない、自分も母親と同じように、その人とだけ通じるしかたで思いを伝えればよい、と、そう思えたのではないでしょうか。そんな彼女は、「わたし、大丈夫」、と、そう思うことができる。そして明くる日、たまこはバトン部の面々と市内フェスに出、失敗続きだったバトンのキャッチにとうとう成功する。

 

 しかしてそれに勇気づけられたということもあってか、インフルエンザで学校が休みになるに際してたまこはそのことを連絡網最後のひとりであるもち蔵には伝えず、彼とふたりきりになれる状況、これを作り上げんと画策します。「君だけのために歌う」と歌っていた豆大にも似て、自分のためだけに糸電話を投げてくれていたもち蔵、彼を思ってたまこは、糸電話を貰いに大路家へと行く――そして次の日、最後の場面へ。たまこともち蔵については、(ホント無駄に長くなったけど、)こんなところで終わります。

 

 ところで最後、かんなとみどりが映画の最終部、木に登りそれを手伝わんとしていたあの描写と、それに前後する場面について。かんなが木に登れるようにと手伝ったみどりは、たまこを京都駅へと送り出したこととも併せて、あの場面で新たな出発をしたのでしょう。それは、TV版に於いてはもち蔵の告白を阻止せんとし、或いは本作に於いて最初、自己嫌悪の念が惹起されるのをわかっていてしかし、もち蔵に対して傷の舐め合いになるような言葉を刺していた、そういったとき、そういった頃とはもはや違って、ずっと思いを掛けていたたまこ、そして、自分と同じような状態にありながらそれを抜け出す為の行動をとれたもち蔵、彼等への複雑な思いを断ち切り、バトン部の演技中たまことすれちがったときに見せた表情のごとき「ふっきれた」感覚、これへと至ることができたのだと思しい。個人的には、彼女のその転回点として大きかったものとして、「もちを喉に詰まらせたふり」を挙げられると思います。それは、ずっと呑み込めないままでいた自分の感情を精算するということであり、また、自分の祖父がもちを喉に詰まらせ入院した直後であるにもかかわらずそれを咎めずに接してくれたたまこに対して感じた、友情の念でもある、そして、その後みどりは、たまこともち蔵の恋路を応援し、かんなが苦手を克服できるよう、木に登るのを手助けするのです。かんなもそれと知って手伝ってもらったのでしょう。ここにもひとつ、みずからの思いと向き合った物語があった。