ワールズエンド・サテライト

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『一週間フレンズ』第2話レビュー


 自分も高校時代2年4組だったな、とか思いながら、ごく短い簡単な感想。

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 火曜日の昼、屋上での場面について。先週の昼休みを共にすごしていたらしいがその記憶がない、すなわち友達だったらしい、という背景があるにせよ、2話に於ける藤宮さんは、1話のときと比べ、長谷くんに対して心開くのがはやい……などと思ったりもしましたが、このときの藤宮さんには、仲良くしようとしてくれている彼に対して嬉しさをいだいたというそれ以上に、かなりの程度、友達を「演じた」ことによるせつなさか哀しみか、そういうものがあったのではないかと思いました。もちろん、記憶にかんする事情を知っていながらそれでも仲良くなってくれようとしている長谷くんに対する、感謝、或いは友情の念、そうした感覚によってふるまっていた面も多分にあったでしょうが、このときの藤宮さんは、「長谷くんが友達である私」というのを演じんとして、覚悟を決めつつも、どこか無理をしていたようにも見受けられます。それは、「それでも私と……」と言ったあとの沈黙、そして、お弁当の卵焼きをほおばりながら見せたせつなげな顔、そういう描写のあったがゆえにそのように感じたわけですが、これに関しては、別にここまで穿たなくても、単に友達を作ることへの抵抗とか罪悪感とか、そういうふうにも解しえようとも思います。

 ただやはり、私としては、ここの表情が表しているもの、それは、記憶から抜け落ちている「だれか」が友達だという際の彼女のその不安、そして、「その人を友達だとしてふるまう」ことを選択してしまう、彼女のその「責任感」、というか、やさしく人懐っこいがゆえの「思いやり」、こういったものだと捉えたい。もし彼女にそういった傾向がなければ、3週間目、日記に「神様、お願いします」とまで書いて(書かれて)あったとは言え、わざわざ「はじめて記憶が戻った自分」なんてものを演じはしないだろう、と、そう思うのです。その思いやり、その涙は、忘れてしまった長谷くんに対してだけではなく、長谷くんをそうまで思ったらしい過去の自分(の感情)に対しても、きっと向けられているのでしょう。

 ところで、最初は「家族については忘れないとか、都合いいな」とか思って、『ef』の「新藤千尋」のほうがよほど凄惨な運命だった、とか、そんなことを思ってしまっていたのですが、仲良くなれば仲良くなるほど忘れてしまう、そこだけ「自分も」欠落する、というのも、それはそれで悲惨であるし、また、藤宮さんは忘れてしまったその友達によって惹起されていた感覚すらも忘れているようだから、もし日記がなくなる、或いは見れなくなるなどして、眉根を皺をよせた冷酷な藤宮さんにこののち戻ってしまうようなそうした展開がきたりしたら、日記を見、忘れてしまった友人への思いから涙を流していた藤宮さんとの対比で、見てて心、痛くなるだろうな、という、そんな予感があります。エンディングでは、ドアに貼ってある「長谷くんは友達 机の上の日記を絶対読むこと!」と書いてある紙が剥がれかけていたりして、これは彼との仲がテープが剥がれるほどに(長く?)続いているということなのか、それとも、藤宮さんのなかに於ける彼の存在が、ああして剥がれ落ちてゆくごとく、消えてしまうということのなのか。穿ちすぎでしょうか。……