ワールズエンド・サテライト

アニメ・漫画の感想・考察,アニソンレヴューのページです。京都の院生2人で編集・更新しています。

『まど☆マギ』TVシリーズ総話考察

遅くなりましたが、『まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』のBlu-Ray、DVDリリース記念と致しまして、ダビさんと劇場版を最初観に行く(俺ら2回観に行ったぜ…)前日に自分のブログ(現在引っ越し作業中)に書いた記事を身辺整理も兼ねて転載します。

転載元の記事は当記事公開次第、引っ越しも兼ねて削除するかどうか考え中。

[転載日時:14/4/15深夜]

 

以下、その転載文の後半(適宜加筆修正あり。)になります。どうぞ。

 

 ====

 

(『まど☆マギ』について前編後編の構成をとって記事を書いています。前編は『まど☆マギ』とからめた自分語りなので面白みはないです。後編はリアルタイムでTwitterなどで書いていた考察を書きたいと思います。)

前編でも少し自分のアニメに対しての経歴を『まど☆マギ』とからめて書きましたが、昔した考察をまとめてみたいと思います。
また『まど☆マギ』に関連する評論を特別読んでる訳でもないので、それらとはほぼ全くリンクしない個人的な考察です。

本編放映中にSNSで書いていたもののまとめです。もう2年くらい前のもので、数ツイートしかしてませんでしたが、それぞれのツイートを30程度お気に入りしてもらったので、『叛逆の物語』公開に際して、改めてまとめたいと思います。

『まど☆マギ』をリアルタイムで観ていて自分がもった観点は二つ。
1.ストーリー構成およびそれぞれ配置されたキャラクター構成が、まるで19~20世紀の西洋の哲学思想の転換期となった時、近代哲学~現代哲学への遷移した時を丁寧になぞったようになっていること。より「個」の実存にせまっていた哲学の流れを思わせる。
2.作品の中で一貫されているテーマは"少女から女性へ"という命題であるのではないかということ。

どういうことか。それぞれ見ていきます。

1について(できるだけ専門用語などを排して書こうと思いますが、興味がなければ2に飛んじゃっても構いません)。

19世紀~20世紀初頭の西洋の哲学・思想を超簡単にめちゃくちゃ掻い摘んでいうと、ヘーゲル弁証法の思想体系を構築して西洋思想史を席巻し、マルクスキルケゴールがそれに対抗した時代。
ここではマルクスはちょっと置いておいて、後にヤスパースサルトルらによって「実存主義」として打ち立てられた思想の始祖とされているキルケゴールの思想とヘーゲルのそれの拮抗を見てみたいと思う。

物語構成を見てみたい。
どこにでもいる(??)普通の女子中学生、まどかの前に突如、ほむら(以下、ほむほむ)とキュウべえ(以下、QB)が現れ、それに続く形でマミさんらが登場することで、魔法少女の世界がまどかたちの前に姿を現すことになる。
まどかは中2にありがちなナイーブな感性、ある種の内省…というか自己評価が低いという特質を持っているのだけど、それは個人の中で完結する内省と言うより、自分と周囲の「関係」の上での内省である。

訳も分からないまま魔法少女の世界を垣間見ることで、まどかは一旦、そこに希望を見出し、自らも「魔法少女になることで、内から出る自己否定感(と言うと大袈裟だけど)を打ち消し、他者を守る使命を持った魔法少女になりたい」と願うようになる。
早くもこの時点で、思春期にヘーゲル哲学と出会って自分が生き返ったような感覚を覚えたというキルケゴールの生涯を思わせる。

しかし、マミさんの凄惨な死を見て、自分たちの今までいた「普通の日常」とは別次元の「魔法少女の世界」は、あらゆる「不条理」と相対しており、魔法少女として魔女と戦い続ける定めを選ぶことは、常にヤスパース的な「限界状況」(活動空間や生命条件を巡って、絶えず行われる「争い」。ヤスパースは限界状況の例の一つにナチスの収容所などを挙げた)に身を投じることであると知る。

それから、さやかも魔法少女になったり杏子も登場したりで、より魔法少女たちは自分の信念と向き合わされることになり、ぶつかり続ける関係も熾烈になっていく。
さやかは魔法少女から魔女になり、そこでQBが「目減りしていく宇宙の未来を永らえるために、地球の思春期の少女の希望から『絶望』への感情の転移によってエネルギーを供給している」と自らの役割を告げる。

ここで、まどかとQBはまどかの部屋で明確に対立することになる。
一般的な目線でみると、QBは人間の感情を持たない非道な生き物として描かれるが、QBもQBとて、悪意をもっている訳ではない。
「いつか人間たちもこの星がダメになって宇宙外へ移住しようとした時に、枯れ果てた宇宙を明け渡されてもどうしようもないだろう?」という台詞に表れているように、QBはQBなりの倫理観(??)をもって少女たちに接してきたと告げる。
QBは続ける。「有史以来、インキュベーターと人間(少女)はずっと関係してきた。魔法少女が魔女に変わっていった歴史とは、つまり人類の歴史そのものであり、もし自分達の介入がなければ人間は未だに洞穴の中でウホウホしているだろう」と。

ここでまどかは反論する。「そんな来るかも分からない未来のために死ねっていうの?」それにさやかも今までの魔法少女たちも希望を胸にしていたはずだ、と。
QBはその感情は理解できないとし、「なぜ人類はこんなにいるのに単一個体の生き死にそんなにこだわるのか」と反駁する。

ここでQBの主張とまどかの主張はそれぞれ立場は違えど、力量としては意外に大差ない。
どういうことか。

QBは徹底的にヘーゲル的な弁証法の思考を取っている。つまり人間が、社会が、世界が弁証法的に止揚し続ける限り、いつかは絶対的な完全の地平に到達できる(より言えば、QBはそれにベンサム的な功利主義の立場をもとっている)。その止揚をしきった完全な地平=真理に到達するためには多少の犠牲は仕方ないとする。人類が真理に到達した時、人は社会や世界と一体化して(へーゲル的な「絶対精神」)争いは起らない。
人類は絶対的な地平に辿り着くために弁証法を繰り返してきた。だから「歴史は理性のもとに合理的であり、合理的なものが歴史である」と。
QBの主張はへーゲルの弁証法のエッセンスをベンサム功利主義的な思考でコーティングしたものに近い。
そこには、人間の理性による理想の環境があるが感情や自由意志といったものは一切なくなってしまう。

まどかは、そこにこそ反論する。つまり、いくら宇宙が永らえようが、そのシステムでは、魔法少女の個人の感情や主体性が決定的に失われているではないか、と。
この反論はまさにキルケゴールがへーゲルの弁証法的なエッセンスを用いつつ、彼に抗して、実存的概念を説いたことに近しい。
いくら人間が弁証法的な歴史の果てに絶対精神に到達したとして、それの過程において「今ここで苦悩するこの私」が問題外視されるならば、そんな絶対精神や真理の地平など何の意味もない、と。
「宇宙がどうなろうが知ったことではない、希望を抱いて絶望していった彼女たちの思いになぜ目を向けないのか」とまどかが反論するその姿は、まさにへーゲルの思想から弁証法的に反駁したキルケゴールの姿に符合する。

しかし、力量として2人はそれほど、変わらない。
QBは徹底して客体化された宇宙の行く末(=真理)を案じているだけで倫理的にも問題はないとしているのに対して、まどかは徹底して魔法少女1人1人の主体の感情(≒主体的真理)を案じているだけなのだから。

キルケゴールは『死にいたる病』において、人間は精神であり、精神とは自己であるとした上で全ての人間は自己において「死にいたる病」に罹患している、つまり絶望しているのであるとした。絶望も色々パターンがあるのだけど、ここでは一旦置いておく。人間が真理(ここでの真理は実存的な真理であって、つまり主体的な真理)に到達するためには自らの絶望を眺めなければならないとキルケゴールは提言した。

まどかは、ほむほむの思いなどに触れて絶望(ここでの絶望はキルケゴール的な絶望とは違うが)を退け、「魔法少女(や人々)が希望を持つ事が間違いのはずがない」という思いに至る。

そして終盤(これはリアルタイムで「まどかが魔法少女になるなら、QBたちが構築した魔法少女システムそのものを無にするのでは?」とツイートしてて、実際最終回を見た時も思わず「当たった!!」ってツイートしてたけど)、まどかは自らも魔法少女になり、希望として「今まで魔女になった魔法少女たちを救いたい(=絶望などないことにしたい)」とした。
ここで、一旦、魔法少女個々人の感情や主体に重きを置いていたまどかの思考は「普遍的な願いとして、絶望を消し去る」ことにシフトする。
つまり、まどかの思考は普遍(物語当初)→個々人の主体(中盤~後半)→個々人の主体を鑑みた上での普遍(ラスト)と遷移している。

個々人の不条理や主体性を抱えた上で普遍的な物事を考えるのはその内に矛盾を孕む。
そこでまどかは、いわゆる"まど神様"となり、自らが宇宙の概念としての存在に置くことで「システムそのものを変換しようとした」。かくして、まどかは形而上の存在、つまりイデア的な概念になる。
それ以降の世界は、そこに生きる人類があたかも集合的無意識のように、「まどか」を概念として捉える世界に再構築されている。皆が「まどかのイデア」を見ているなか、ほむほむだけは「まどかそのもの」へアクセスできるという構造で物語は終わる。

ここで「まどかのイデア」を見るのではなく、「まどかそのもの」へアクセスできることは、ほむほむにとって長い目でみれば希望より絶望に近くなると思うのだけど、そこらへんは『叛逆の物語』で語られるところだろう(最重要追記:これも「当たった!!!」)。

あとほむほむの時間遡行の特性とその設定から東洋思想(輪廻など)を思わせるという論をどっかで読んだ気がするけど、いわゆるループものとして作品を見た時にその指摘がどれほどまでに有用であるか自分には分からない。



2について。
先のまどかの思考の遷移、普遍(物語当初)→内的な固有性、個々人の主体性(中盤~後半)→個々人の主体を鑑みた上での普遍(ラスト)というのにもかかっているけど、この物語のテーマは"少女から女性へ"というテーゼ(=「成熟」)だろう。

そもそもQBの決め台詞的な「いつか魔女になる君たちはさしずめ魔法少女と呼ぶべきだろう」という言葉にも隠喩的に表れているが、物語では魔法少女と魔女を対比した存在として置いている。そして、それは同時に少女と女性を遠景的に対比させ、成熟の困難さを謳っている。けれども、その成熟の困難性を分かった上で、あえて、まどかという少女の成熟のストーリーをあたかもポストモダン的な小さなビルドゥングスロマンを大きなストーリーとして描いている(このあたりがメタセカイ系っぽい??)。

まどかの思考の遷移もそうだが、「他者と同じ公共性を持った1人の人間として、社会的に自己を完全に実現することは不可能であることを知った上で、主体的に世界にコミットする」というのは大人の向き合い方である。

注目したいのは、最終話だったかでワルプルギスの夜と戦おうとするほむほむを案じて、まどかが避難所からほむほむの元へ向かおうとする時に、母親と対峙するシーンである。
基本的に12話の中で濃密なストーリーをテンポよく描いているアニメなので展開的にもサクサク進むが、このまどかが親と相対して、自分の決意を自分自身で肯定しながら、親と向き合って、親を越えて行くシーンは若干テンポが悪いように見えるけれど、むしろこのシーンこそ、まどかが「少女の時を過ぎて、女性として成熟した」ことを示す象徴的な場面である。最初は自分自身の無力さを嘆き、自分が足を引っ張っているだとかそういった思いを抱えた少女が1で顧みたような過程を経て、自分自身を肯定しながら、親を乗り越えて行くというのは成長の証と言って差し支えないように思う。

逆に言えば、主要人物の中で最初に死んでしまったマミさんは自己自身の不可能性に気付きながら、それでも社会的な自己実現に執着しすぎた結果(「もう何も怖くない」など)、成熟の機会が失われてしまったように思う。
また、さやかは、まどかでいうところの普遍→個々人の主体性→×といったように個々人の主体性をどう引き受けるかに失敗してしまったように思える(杏子は難しい)。
ほむほむは、まどかがそれでも魔法少女になると決意した瞬間と概念化するまどかを目の当たりにしたところで、誰よりも遅い成熟を迫られる。こうしてみると、ほむほむが1的観点からみても2的観点からみても相当不安定な気がする。


閑話休題
スピッツのEPに『オーロラになれなかった人のために』という作品がある。
最初期から草野マサムネは「魔」という概念を巧みに使っていた(「夏の魔物」「魔女、旅に出る」、「日曜日」など…)。それは初期のスピッツお得意の禍々しく歪でフェティッシュな成長の代替品として扱われたように思うが、『オーロラになれなかった人のために』ではその名も直球な「魔法」や"選ばれて君は女神になる"などの一節が象徴的な「涙」が収録されており、「魔」の力をかなりメインテーマとして扱っている感のあるアルバムになっている。
自分の(勝手に)全曲解説ブログでも、扱っているが、『オーロラになれなかった人のために』のタイトル自体、「アラスカ北極圏に住む先住民の『死んだ人はオーロラ』になる」という逸話から採ったものであるということを鑑みれば、さしずめ「死にきれなかった人のために」といったように解釈し得るタイトルだが、では、「死にきれなかった人」はどうなるのか。「魔」の力を手に入れるのである。
だから"選ばれて君は女神になる"のだ。


『まど☆マギ』における成熟のテーゼもこれに近い。
"本当は1人ぼっち"を見つめて、それでも、「オーロラになるのではなく」、「魔」に飲まれてしまうのではなく、「魔」を味方につけること。
それは「少女から女性へ」変わっていった女性たちの特権であるのだ。



何か長々と書いたけど、どちらも上手くまとまらなかった。
時間がなかったせいだ…

自分の中での整理もうまくできなかったが、ひとまず明日『叛逆の物語』を観たらまた、これから展開させて何か書きたいと思う。