ワールズエンド・サテライト

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『彼女がフラグをおられたら』第1話レビュー

 1話を見ただけですので、話についてはなにも言えないのですけれど、動いている菜波ちゃんたちを見ていて(私としては)心ときめくものがあったので、それについて。まぁ、ただの印象論を述べるだけ……のうえ、あまり1話自体の感想にはなってないんですが。

「彼女がフラグをおられたら」第1巻[Blu-ray](初回生産限定版)

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  巷では絵柄について、「古(くさ)い」、などと言われているようです。主に塗りのせいか、なんてふうに言われていて、確かにそう思って見てみれば、昨今よく見る感じのある、淡く、或いは薄めにえがかれている絵柄、別言するなら「色調の幅が(わりに)狭い」「色味のキツくない」ような絵柄に比べたら、全体的に画面が重い。菜波ちゃんの髪の毛だけ見ても、金髪の金色を基調にして陰影が4色くらいは重ねられていて、それによってかなり金色が鮮やかに目に映るし、また、服装の皺による陰影もわりにくっきり描かれている。そうしたハッキリした色彩 の「今っぽくなさ」から感じられる「古くささ」は、そう言われれば確かに首肯できる。
 けど、それとはまた別に、個人的には「塗り」以上に「体の造形」 のほうでなんとなく「今っぽくなさ」を感じたりもするのです。絵とか人体について勉強したことないからテキトーなことを言うだけになるんだけど、ありていに言ってしまうと、「がをられ」のキャラクタ造形は(本当はそんなに読んだことないから詳しくないんだけど)、「(往年の)ロリ漫画」ふうの体付き――適当かはともかく、例を挙げてみるならば、「吾妻ひでお」の描く女の子、或いは、キャラデザの人のゆえなのか、ドラえもんの「しずかちゃん」のそれが近いような感じを受けます(……しずかちゃんとまで言ったら言い過ぎか?)。いわば、妙に「肉感的」、っていう感じ。頭身低いのに。あるいは頭身の低いがゆえか。
 最近の萌え(には限られないんだろうけど、)アニメや漫画に於ける女性を見ていると、なんとなくですけれど、頭身が高めに描かれていたり、手足や腹回り、腰回りなど、体全体の肉付きが少し薄めに描かれていたり、と、そんなふうな絵柄が多いような気がします。まぁ特に言いたいこととしては、骨盤あたりの造形がわりに実際的現実的、腰回りがやたら大きかったり小さかったりはしていない、みたいなことなんですが。均整がとれている、という意味では、実際上の女性とも乖離があったりする場合とてあったりするのかもしれないけど(非常に失礼な言動)、昨今の絵は、デッサンがあまり狂ってない(?)というか、躯体の「凹凸」 のデフォルメ度合がわりに小さめ、というか、そんな感じに見えます。

 しかしその点、今回の『がをられ』の女の子たちは、スカートより伸びる足からその体躯の輪郭を想像してみると、ウエストに対して明らかに骨盤が大きい……ような感じがあります。言ってしまえば「尻がでかい」「足が太い」、そして「上半身が短い」。蓋し、頭身低め(5.5頭身前後くらい?)のデフォルメが効いているキャラデザにしてかつ、それと同時に、女性らしさを感じさせるだけの体の凹凸をえがかんともしてみたら、上半身と下半身を繋ぐ部分としての骨盤、腰回りあたりを、とくに丸みを帯びたものとしてえがかねばならず、そしてそこは結果として、「強調された女性らしさ」を体現するものとしての 「腰回り」、と、いうことになる……みたいなことを思いました。ここでもし腰を細く描こうとしたら、足も細くせねばならないことになり、それが行き着けば『×××HOLiC』とか『魔法騎士レイアース』とか特にそんな感じだけど、CLAMPみたいな(肉感的というのとは違うような)絵柄になったりするんだろうな、とも。

 で、結論に代えまして、さきに「がをられ」のキャラデザについて「肉感的」と書いたわけですが、それは、その体躯のわりに大きく描かれた腰回りと、腰をそうえがいたゆえに描くことあたうようになった厚みのある足、これらのゆえなのだろうと思いました。「頭身の低さ」と「(エロチックな)肉感」というのは、言葉だけでみたらどこか相容れないもののような気もしたりするんですが、このように捉えれば、両立し得る感覚のようにも思えてきたりも……。(昔の?)ロリ漫画を思い出した、っていうのは、そんなところが理由です。たぶん。

  ところで、話についてもなにか少しく言ってみるなら、本作に於けるこの場合のフラグとは、そののち或る展開を生じさせるための変数・伏線、あるいは、もはや定石と化した、すなわち「お約束」となったその変数・伏線のこと、これらのことを言うのであろう、ということは指摘できると思います(なんもたいしたこと言ってない)。それは普通に考えて、本当であれば、我々視聴者の側が話を見て聞いて感じ取るところのものであるけれど、この物語に於いては、その「フラグ」なるものが、作品世界に生きる主人公(や場合によっては我々)に対して可視化された状態でえがかれる。この作品世界の人物達は、なにか言う、なにか行動をすることで、なにかしらのフラグを立て(てしまい)、それによって左右される運命のもと生きている。そして主人公は、死亡フラグの立った男性に対して「その商談、失敗しますよ」みたいな台詞を言い、そのルートを回避させるなど、言葉によって世界に、事象に、介入し変化を齎す力をもっている。

 「フラグ」なるものがこうも実効力を持ち得ているなか、「言葉」によってそれに介入もできるという『がをられ』の世界は、視聴者である我々が生きているっぽいこちら側の世界よりも、おそらく、「言霊」的なものの力が強いところなのでしょう。しかしまた、口にした言葉、思った言葉、或いはとってきた行動などがこうまで運命を左右しているのを見ると、偶然という要素が排除された決定論的な世界のようにも見えてきて、そうなると、「フラグ」の存在を認識でき言葉によって変化を齎せるという主人公の存在は、作品世界に於いてもかなり特異なものなのであろう、と、感じさせます(小並感)。しかもそれを「おる」ことができるなど、これは謂わば、網目のごとく張り巡らされた「運命」を、完璧ではないといえ、認識できるということでしょうから。そんな彼が、或いは、フラグを認識する能力を持っている人はきっとほかにもいるんだろうけど、そういった人達が、こののちどう動いていくのか、「決定論的」な世界というのがもし本当であれば、きっと神とか運命とかそういったものに逆らうみたいな話になったりして、とか、そんな展開を幻視したりもするのですが、果たしてどうなるか。最後には旗立くんの頭上にオドロオドロしいフラグが立っていたりもしたので、わりとそういう話になったりするんじゃないの、とも、結構思ってたりするんですが。まぁもちろん、人の運命がその種々の顛末を定められているらしいからといって、それを行なったであろうものとして神みたいな超越的な存在、これを想定する必要は別にないんだけど。

 最後に。見てて感じたこと、思ったこと。

菜波「ふらぐぅ~?」

 これめっちゃ可愛かった。


茜「わたし、魔法ヶ沢茜というです!」


 これ以降『ジュエルペット』のローサがどうしても頭をチラつく。

 この作品を見ているみんなもそうなるがよいです。