『妄想代理人』総話レビュー
当ブログの管理人情報を追記していくにあたり自分の「好きな(TV)アニメ」欄に挙げる作品を選んでいるなかで、『妄想代理人』を挙げるかどうか迷いました。
まず、改めて見返しての第一印象は最初に観た時と同じ。
まるで青天の下に惨劇を見るような、豪雨と濁流の中で笑顔を浮かべる子供たちを見るような、そんな相反するイメージに圧倒された KON'S TONE
感じをリクエストしたそうです。その結果、出来上がったのは、まさにそれを体現した平沢進流のアンビバレントな情景を絞り出した曲。
これにのるビジュアル面も凄まじい。
ビルの屋上の端で両手に靴を持って死んだ魚のような目を見開き今にも投身自殺しそうなOL(月子)、津波の濁流に飲まれる小学生たち、水中で溺れる女子高生(妙子)、空から堕ちていく馬庭、廃墟で携帯を取る川津、大量のゴミ袋の中で佇む解離性同一性障害の女性(の2人格)、解体される家で凛と立つ夫人(美佐江)、歌詞通りのキノコ雲をバックにタワーでオワタのポーズをとる猪狩…
その全員が異様なまでに虚ろに大笑いしている。
気色が悪く、それでいて清々しい、このOPだけで圧巻です。
ほか音楽も平沢さんが基本的にBGMを手がけています。多くの曲が『Solar Ray』のような平沢ソロの荘厳で重厚なエッセンスをP-MODELのようなテクノポップ手法で変換したようなもの。第1話では冒頭から「Gemini 2」が月子の務める会社の社内音楽に使われていたり、2話の酷いいじめを受けた小学生のシーンではP-MODELの「ジャングルベッド2」のようなものが流れたり、9話の主婦のでたらめな想像のシーンでは「賢者のプロペラ-2」が使われていたりと平沢進ファンだとクスッとくるところも多々。
演出。
今監督お得意の現実世界と精神世界(や仮構された世界)とが行き来し、キャラもその間を移動する交錯した場面が終盤において特に連続します。白昼夢のようでいて、パラノイックな偏執の妄想とも思える描写はお見事。とは言え、今監督の作品、『千年女優』や『パプリカ』ほど難解でもなく、割とすんなりと受け入れられるかと思います。最終盤は若干、セカイ系っぽくもありますしね。
物語。
これが本当に、個人的には救いがなく、逃げ場がなくなるもの。
最も重要なのは、作品世界の中で人々の癒しでありブームとなっているマスコットキャラ、「マロミ」と、生きるのが辛く精神的に追い詰められ衰弱した人間を次々に襲う「少年バット」は同じ存在であると明示された瞬間。
マロミは疲れ切った人々を癒す、ゆるキャラであると同時に、すがりたくなる享楽・快楽の象徴です。
少年バットは疲れ切った人々を襲う、恐怖の存在であると同時に、すがりたくなる偏執的な妄想・(大袈裟に言えば)発狂してしまいたくなる願望の象徴です。
そう、マロミは明(あるいは正)の方向に、少年バットは暗(あるいは負の)の方向に向いているだけで、共通しているのは、人間が持つ本能的な現実逃避の象徴であるという点です。
物語序盤は連続通り魔事件=少年バット事件の犯人を突き止める刑事達にフォーカスを当てて物語が進行しますが、どうもうまくいかない。中盤で模倣犯である偽少年バットが獄中自殺したことで、刑事達は職を失います。月日が立つと同時にマロミは国民的癒しブームの象徴として祭り上げられる一方で、少年バットは実態を失った狂気の概念存在として肥大化していきます。
終盤において、職を失った猪狩刑事の妻であり余命幾許もなく希望が絶たれそうになっている美佐江がいきなり登場し、概念と化した少年バットは彼女を襲おうとします。
しかし、美佐江が旦那である猪狩をいかに信頼し、どんな悲惨で目を覆いたくなる現実が待っていても、旦那を信じ続ける。決して絶望などしないのだと喝破し、少年バットは初めて負けてしまいます。
まずここが作品のハイライトの一つと言えるでしょう。これは『千年女優』にも言えることですが、成人〜妙齢の女性の持つ強かな人間としての逞しい信念をアニメで描く才能において、今監督は間違いなく一級の表現者と言えようかと思います。
その信念は、崇高な(理念的ではなく、本能的な)"愛情"でしょう。『千年女優』ではそれを他者を通した自己愛(と言うよりは包含的な愛)として描いたことで賛否両論でしたが―と言いつつ僕としては、完璧に賛辞を送りますが―今回は、自分が子どもを生めない身体であってそれを負い目に感じつつも、献身的に想いを与え続けてくれる旦那のことを、たとえどんな将来が待っていようが、2人で乗り越えてみせるという強かな意志として描かれています。
一方、失職してしまった旦那である元刑事、猪狩は再就職した警備員の仕事で昔自分が捕まえた元泥棒と共に仕事をしつつ、昔は良かった…と回顧し、仮構した世界に移動します。
猪狩が少年時代を過ごした時代は、皆が同じ食卓につき、同じテレビを観て、万博の夢に心を躍らせていた時代。泥棒は浅葱色の風呂敷を持って、刑事はそれを追いかけるといった古典的な世界像があった時代。テクノはまだなく、ロックは不良の音楽であった時代です。思想的な言葉を使えば、リオタール的な<大きな物語>があった頃の日本像です。
猪狩はそこから「いかに時代が変化しようが、絶対的に正義であるものは存在するのだ」と頑なに信じ続け、それを原動力にしていましたが、それも最早、通用しなくなった。
そう、現代はマロミが少年バットである時代です。善と悪が表裏の共犯関係になって、その線引きが非常に曖昧になった時代であります。猪狩はノスタルジックな精神世界を仮構して逃げ込んでしまっているのです。そこにマロミの制作者であるOLであり少年バットの第一被害者であった月子を連れて。
この月子もまた、善悪が明確に分けられた、正と負が分けられた世界をどこかで信じています。だから、マロミは彼女にとって自分の作り出した表現物であると同時に、自分を正(善)の下に引き止めてくれる防御壁として機能しています(これは1話から、神経症的なまでに人形であるマロミに話しかけ自己内会話を続けていることからも伺えます)。
まぁこの彼女の持つマロミ像自体が実はダウトであると最終話で明かされますが。
ゆるキャラ、マロミの原点は10年前、小学生時代の月子が飼っていた子犬です。月子は、不注意から犬、<<マロミ>>を死なせてしまいます。その過失を、怖いお父さんから怒られるのではないか、という不安から、架空の通り魔事件をでっちあげます。
彼女は、自分は通り魔に襲われ、<<マロミ>>が死に自分も負傷した、と警察に供述します。しかし実際は彼女が、とっさに自傷したケガであるのです。
この構造が、作品内の現代においてもループします。OLとなった月子は、人気ゆるキャラ、マロミを制作して一躍、時の人となったものの、社内では同僚の嫉妬を買い、上司からはさらに売れる新作を催促されていました。精神的に追い詰められた月子は、その堪え難い現実から逃れるために、10年前と同じように、架空の通り魔事件をでっちあげ、帰宅途中、ローラースケートを履いて赤いキャップを被った少年にバットで殴打されたと猪狩に供述します(実際には、彼女は落ちていた鉄パイプで自分自身を殴打しただけ)。この架空の犯人が後に概念化する少年バットです。
猪狩と月子は、猪狩が作り上げたノスタルジックな精神世界に逃避します。その裏で現実世界では、少年バットがより凶暴化して、黒い化け物となって人々を無差別に襲いまくります。
猪狩は、自分が作り出した世界に元同僚であり現代的な世界観(大きな物語が終焉したポストモダン)を持っていた刑事、馬庭と美佐江が介入することで、自分のいる仮構世界を疑い出します。その猪狩と月子を街中にいるマロミが遮ります。
「月ちゃん、耳を貸しちゃダメだ。月ちゃんはいつだって正しいんだ。あいつらが悪いんだ」
しかし、最後に、猪狩は自分自身がいるのが妄想の中であると気付きます。
「現実のどこにも自分の居場所なんてない、その現実こそが俺の居るべき場所なんだ!」
そう喝破し、仮構世界を破壊しまくります。
猪狩と月子は現実世界に戻り、真実を語る馬庭と対峙します。結果、街からマロミも少年バットも消えます。そして、Cパートで、そんなマロミと少年バットを生む世界がまたループすることが明かされてエンディングを迎えます。
…
僕はこの作品、あまりに厳しい作品だと今でも思います。
作品内にメッセージがもしあるとしたら、猪狩が発した「居場所なんてどこにもない現実、その現実こそが俺の居場所なんだ」という一言に尽きるのではないでしょうか。
と言っても、月子や少年バット被害者の面々がそうであるように、現実と言うのは、直視に絶えないほど恐ろしいものであるはずです。それに世界とはいくら戦っても個人ではどうしようもない相手です。
90年代初頭に、サブカル社会学ライターである鶴見済は、著書『完全自殺マニュアル』や『人格改造マニュアル』、『檻の中のダンス』において、「世界を変えよう、現実を直視しようなんて思わない方が良い。そんな試みは絶対に失敗する。世界を帰るためにやっきになるくらいなら、自分自身を変えよう。方法は簡単。自殺、薬物、洗脳、瞑想、レイヴ…」と語りました。
世界/社会と対峙するのは到底できない。怖い。だからこそ、人は本能的に現実逃避します。
それは流行ものに溺れてしまったり、酒を飲んだり煙草を吸ったりだとか一般的なものから、薬物に頼ったり他者に依存したりするなど多様な形があるかと思います。と言うより、それらがないと、どだい現実と相対することなど不可能に近いのです。
しかし、この作品では、それを許しません…とはさすがに言い過ぎかな。現実に直面し続け常に思考し続ける態度こそ人間の尊厳であるのだ、と言ったように訴えかけてきます。思想的に言えば、キルケゴールの『死に至る病』で書かれた実存思想に近いものです。
僕は思うに、マロミや少年バットは一定数は必要ではないかと感じます(まあ行き過ぎたものはマロミ面でも少年バット面でも個人的には大嫌いですが)。
一時的な快楽も脱して気が振れることも許されず、現実を直視し続けることなんて、仙人でもない限り普通の人間ではできません。皆が皆、等しく「救済の技法」に気付くことができる訳ではないと思うのです。
そういう点で、この作品はあまりに厳しすぎると思うのです 。
しかし、この作品が一般には受け入れられ難い、世間離れした作品であるかと言われればそうも思いません。いや、実際、この作品ほど、「キツい現実」をリアルに描写したアニメ作品は少ないのではないかと思います。
では、この作品で、マロミにも少年バットにも頼らずに生きるために提示された方法は何なのか。
それは、先に書いた美佐江の持つ愛情です。包括的な母性愛といっても良いかも知れません。自己犠牲でも、他者依存でもない、本能的な愛情。これこそが、人間の持つおぞましい現実に対抗する手段である、そう描かれていると思います。
作中終盤で美佐江は病に冒され死んでしまいます。その死の寸前まで、美佐江は夫である猪狩を信じ続けていました。その崇高な死に様によって猪狩も現実世界に叩き起こされます。
まあ現実逃避も愛情も人間が本能的に持っているものですが、そのどちらをもバランス良く行使できている人は非常に少ないですよね。
千の日を越えむかえた朝なのに/雨に凍える姿を見るなんて(…)遠く帰ろうキミを今日むかえに/胸にMotherの呼び声は聞こえて/いつか会えると宇宙の子らとして/春の陽に許されて 平沢進「MOTHER」
引用したのは平沢さんが声優・宮村優子さんに提供した曲でありセルフカバーもされた名曲「MOTHER」ですが、要するにこの境地ですね。
これまた冒頭に書いたように、現代人にとってはあまりに逞しく厳しい境地ですが、この愛情の描写に一縷の望みが見られると思います。
と散々書いてきましたが、妄想「代理人」(英題:Paranoia "Agent")は、妄想を引き受けてくれる存在です。
妄想も自分自身で引き受けなければならない、このテーゼは、素晴らしいと思いますし共感します。
非常に多面的(と言うか作品内で説明がかなり少ない)な側面を持つ作品ですが、現実がキツすぎる人ほど感情を揺さぶられる作品であるのは間違いないでしょう。
そういった意味で類を見ない作品であると思います。
最後に。
作品内で、ある老人が奇妙でデタラメな(狂人的な)数式を落書きしています。
その解は、「アニ…」。そこまで書いて老人は力つきます。
これは今監督の「色々と難しい命題を出してるけど所詮これはデタラメ娯楽作品である"アニメ"なんだ」というアイロニカルなメッセージではないのか、と思います。
そういう意味で、今監督は、こういう深読みしたレビューをみては、あちらの世界で笑っているかも知れませんね。苦笑