ワールズエンド・サテライト

アニメ・漫画の感想・考察,アニソンレヴューのページです。京都の院生2人で編集・更新しています。

『いなり、こんこん、恋いろは。』総話レビュー

 徐々に諸作品が最終回を向かえつつある現在、特にアニメ批評の方法論も知らないけれど、なにか考えたことをば書いてみたい、という思いから試みてみるアニメ感想です。とりあえずは我々管理者がふたりとも視聴しているアニメからひとつ。

いなり、こんこん、恋いろは。 (1) (角川コミックス・エース 326-1)

いなり、こんこん、恋いろは。 (1) (角川コミックス・エース 326-1)

 

 

 京都は伏見を舞台にして、変身能力を得た少女「伏見いなり」が、恋に友情に悩みつつ、様々な騒動を巻き起こしてしまう物語。
 主人公の「いなりちゃん」に定位して話を見てみれば、恋に友情に一生懸命な、しかしその精神的な幼さや不器用さがゆえに悩み苦しみ、みずからの感情によって振り回されている或る少女が、その心揺れる思春期という時代の途上、まさに「神憑り的」ともいえよう「成長」を果たしたその一瞬を切り取った物語がこれである、と、そのように解し得ようかと思います、が、まぁ神憑り的とまでいってしまっては多分に言い過ぎですね。罪悪感ゆえとはいえ劇の主役は下りちゃうし、桃山さんの手紙を失った件に関しては最後、彼女のやさしさで救われた感はあるしで、物語後半に於けるそういうところを見た限り、いなりちゃんはそこまで劇的な成長を遂げているというわけではべつにない(というより、誰かの影をなぞるばかりではいけない、みたいな、そういう教訓的なことを悟ってゆくような成長を徐々に遂げているからといって、それでなんらの問題も起きなくなる、というものでもないのが人の生? 当たり前の話っちゃ当たり前の話なのかもしれないけど、ちょっとリアル感があるかもしれない)。ただ、物語の最初、泣いて逃げ出し神社に駆け込み、みなに慰められるばかりだったような頃からは徐々に変わりゆき、いなりちゃんは自分の「感情」、或いはおこない、こういったものと段々に向き合えるようになっていったのではないか、そしてそれは、彼女にとって大きな一歩になっているのではないか、と、そのようにも感じられます。自分の姿に戻ったうえでうか様のお見合いを止めさせたり、桃山さんの恋文に関して、ごまかしたりせずちゃんと謝ったり(「手紙捨てた」とまでは言わんくてよかったと思うけど)、会えなくなることを知りつつ、うか様に神通力を返すことを決めたり、とか、そういった成長の片鱗はさまざまに見せてくれており、いつしか神社に泣いて逃げ込むこともなくなっていました。

 


「いなり、こんこん、恋いろは。」番宣PV - YouTube

 

 ところでこの、自らのものでありながら、しかしそれによって大きく振り回され、ときには非常に苦しめられもするところの「感情」というもの、それをさまざまな事象や出来事というかたちで具現化させる契機としての変身能力すなわち「神通力」は、少女の「思春期」という時期に於けるその心の揺らぎを象徴し、且ついなりちゃんの成長を促す、物語をもりあげるための装置として、とても魅力的に働いていたと思いました。よかれと思ってやったことがうまくいかない、それどころか無意識的に奔流せしめた力のために騒動を起こしてしまう、といった感じに、いなりちゃんは1話の頃から一貫して空回りするばかり、かなりのドジっ娘であり続けていたけれど、神通力はそうしたいなりちゃんのドジっ娘っぷりをとてもわかりやすいかたちで戯画化してくれ、物語に起伏をつけえていたと思います。なんだかんだで彼女は人と仲良くなれる性格のようなので、もしかしたら神通力などなくとも墨染さんや丹波橋くんとは仲良くなれていたかもしれないけれど、丹波橋くんからバスケを教えて貰えるというだけでテンパり、コケて、彼の履いてたジャージをずり下ろしちゃったりしていたいなりちゃんですから、どこかでまたなんかやらかして、引っ込み思案になったりしても、おそらく不思議はないような感じもする。そう考え得るとしたら神通力は、否が応にもいなりちゃんを彼女の感情に直面させ、心をゆさぶり、その精神的な成長を促す、そのための契機として要請された、謂わば発破を起こす「爆薬」のようなものとしてあったわけで、そういう「不思議なもの」に後押しを受けた少女の成長譚として、この物語を捉えることもできるだろうと思いました。揺れ動く少女の思い、それの影響力の大きさを思わされます。

 

 また他方、うか様に焦点を合わせてこの物語を思い返すと、この方もまた、神通力によって右往左往させられた人(?)のひとりであったな、と、思わされます。神としての存在がいなりちゃんへと移行するという、後半に於ける軸となった設定もそうだけれど、むしろ、私がそういうことを感じさせられるのは、物語のごく序盤に於いてです。いなりちゃんが墨染さんになりたいと願った際、その(わけのわからない)お願いを言葉そのままに(深く話も聞かず)叶えてしまったうか様は、「人と仲良くしてみたい」というみずからの希望を叶えたく思っており、それゆえに神通力を、いなりちゃんがその後自分に頼らざるをえなくなるようなかたちで以て、無意識裡に使ってしまったのではないか。それは、人に近付くことを願い、徐々に人間臭くなりつつあったうか様が、(人であるいなりちゃんが神の力をもてあましたごとくに)いなりちゃんと自分とのあいだになにか絆を結ぶべくしてやってしまった、力の暴走(?)なのではないか……なんてことを考えて、書いてみたりしたけれど、まぁどうでしょうか、考え過ぎかもしれませんが。思えば、燈日くんに遊びに来ていいと言われたときも、朝っぱらからたずねてしまうっていうのをやったりしていたわけで、こういったところからは、彼女にはもとより言葉を額面通り捉えるくせがある、或いは、神様がゆえの非常識さがある、といった解釈もできるでしょうが、ただ、そこに「仲良くなって遊びたかった」という動機の隠れて働いていた可能性は、やはり排除できないと思います。そう解し得るなら、うか様の場合もこれは、何千年、何万年とねんねちゃん(?)みたいなことをやってた彼女が新たな自分になるべく必要だった、「感情」の爆発であったのでしょう。
 最後に。話の筋以外では、髪の毛の表現が非常に綺麗で、個人的にはこれが本作の最大の魅力であったとさえ思えます。体の動きに併せて揺れ、或いは風に靡くそのやわらかな髪の毛は、揺れ動く(少年)少女の心の動きを表しているようにも感ぜられ、見ていて愛おしさにも似た感覚を惹起されるようでした。まぁ、少女でないような人の髪だって揺れてましたけど。

 ……しかし、丹波橋くん、墨染さん、燈日くん、こうした人々の恋心が全力放置になったりとか、触れあえなくなったうか様といなりちゃんとの交流もその後がえがかれず、とか、まぁ角川の販促アニメの運命なのかもしれませんが、そういうのは残念でしたね。