ワールズエンド・サテライト

アニメ・漫画の感想・考察,アニソンレヴューのページです。京都の院生2人で編集・更新しています。

『中二病でも恋がしたい! 戀』総話レビュー

  最終回を視聴。銭湯についてくる富樫君……キ、キモい、キモすぎる……。彼女にかかってきた女友達からの電話、その内容を聞き出し銭湯にまでついてくるという今回の富樫君の行動には、なにか違和感というか、歪んだ感じというか、そういうものの片鱗を感じざるをえないんですが……そんなことない? 私だけ? また余計なおせっかいを焼くつもりか、みたいなことを富樫君は言っていたけれど、自分と六花ちゃんの恋の進展のため、なにかと力を尽くしてきてくれた結社の皆に対して、そしてひいては自分の恋人に対してすらも、これはあまりに信用してなさすぎる感じがある。だってガールズトークをする(であろう)って場にわざわざついてくるんだぜ、(一色はともかく)男ひとりで……まぁ、風邪を引いてるにもかかわらず雨のなか傘もささずに出歩いていた、っていうのを見たあとだし、六花ちゃんに対して過保護気味になっている、っていうのはわからなくもないのですが。ただ、こういった場面を見せられてしまうと、中二病を貫き通すことと幼児退行とを履き違えてるっぽ(く描かれているらし)い六花ちゃんも六花ちゃんで大概だけど、それの面倒をかいがいしく見ている富樫君も富樫君で、彼は実際のところ、六花ちゃんに成長してほしいとか思ってないんじゃないのか、とか、そういった勘繰りもしたくなって、するとこれは、或る意味(軽い)共依存みたいな関係にも見えてきます。

 

 

  思えば、父親の病状についてその実際を知らされずにおり、別れを言えなかった(或いは「言わせて貰えなかった」)まま、心に空虚感、欠如感を抱えて、ただただいい子でいるばかり、自分を押し殺すことしかできずにいたそんな中、ダークフレイムマスターの勇姿(?)を見、それに影響を受け、みずからの存在の拠り所として邪気眼系の)中二病というかたちのそれをとることにし、現在のアイデンティティを構築したのが六花ちゃんなのであり、他方でまた富樫君は、今でこそ中二病を卒業し、自分がそうであったということを恥ずかしく思ってはいるけれど、見果てたつもりのかつての自分、かつての夢、こういったものを体現してくれている存在であるとして、彼は邪王真眼を持つ(と自称する)六花ちゃんを肯定し、受け容れ、その果てに恋人とまでなったわけでしょう、きっと、たぶん。だから、このふたりの関係の根柢にはそもそも、中二病よしとするというそれ以上に、(邪気眼系の)中二病を介した関係であらねばならない、という、幾分強迫的ともいえよう観念がありはしないか、とも、思えてくるわけです……と、なんては言いますが、別に、共依存(的な関係)を正常ならざるものとして非難したいわけではないのです。人と人との関係がそういう展開を経るのもひとつの物語でしょうから、まぁ是も非もないくらいのことしかここでは思ってないけれど、ここで私が不満に感じているのは、中二病の貫徹を、是認したという以上にむしろ称揚したごとくなっているその(1期から続く)流れのなかで、六花ちゃんがああも我儘で子供臭いふるまいを続ける人物としてえがかれてしまうと、その退行と中二病とが同一視されてしまうことにならないか、そしてそうなると、それは、思春期以降自分という存在を省みるための視点をより俯瞰的に設定できるようになったことにより罹患する、自意識過剰、すなわち中二病というその疾患のごときについて、邪気眼系の設定だけを引き摺っている「もはや別のなにか」になりはしないか、ということです。2期になってからの幼児退行したごとき六花ちゃんからは、中二病の蹇々たる側面、この「自分とは何か」という切実な問いにかかずらう必死な部分、それが感じられなかったなぁ、というのが、私の感じる正直なところです。「闇とかいっとけば喜ぶと思ってんだろ、アイツ!」なんて言うけれど、じゃあ、なんでそんなこと思われちゃってるのかを考えましょうよ、って感じ。ふたりとも一方通行っぽいんですよね。で、ここで普通(?)なら、ふたりの恋愛関係に於ける(邪気眼系)中二病の存在たるや如何、って感じの問いを立てることになるのだろうとも思うけれど、うえでも述べたとおり、この物語ではそうはならないわけです。中二病、それは、ふたりの絆そのものだから。そして、ここに於いて現れ、そのふたり(だけ)の絆を揺るがしかねない存在として登場したのが、かの魔王魔法少女、ソフィアリング・SP・サターン7世ちゃんなのです。つまり当て馬です。

 

 六花ちゃんにとり、中二病症状を全力開放しながらも富樫君と仲良く触れ合えている(うえに彼の中二病の師匠だという)ソフィアちゃんという少女の存在は、中二病であるからこそ富樫君と共に在ることができているという(恋人としての)自分の居場所と、ひいては、彼を源流とする中二病の系譜にあってこそアイデンティティを確立できているという自分の存在、これをも揺るがしかねないものとして、きっと看過し得ないものであっただろう、とも、考えられます。このとき、六花ちゃんが富樫君から愛を勝ち取るべく取り得た道は、ふたつあったろうと思われ、ひとつには、「中二病じゃなくても私を愛してくれる?」と問うこと、すなわち、中二病から離れたアイデンティティを確立し、そのうえで富樫君と恋人を続けるという選択、そして或いは、「彼女よりも私は中二病だから、もっと愛してくれる?」と問うこと、すなわち、七宮ちゃんにも為し得なかった「中二病恋愛との両立」を成功させる……まぁつまり、暗炎龍を復活させ、DFMをゲルゾニアンサスへと進化させる(?)、という方向の選択。けどやっぱり、さんざんもう述べてきているけど、1期の最終話に於いて、中二病を無理にやめること、やめさせることは否定されたし、また、数話前にくみん先輩が言っていた「無理に夢から覚めさせられるのはつらい」といった感じの言葉がここでもあてはまるとするなら、実質的には後者の選択しかありえないわけでしょう、きっと。ただ、無理にやめさせようとした前期とは違って、今期は自然とそれを忘れそうになっているという展開なのだから、忘れるなら忘れるでいいじゃないか、むしろここでは、邪王真眼というかたちで実体視されるがごとくなっているアイデンティティに固執し続けるほうが、六花ちゃんの精神発達に於いては隘路(?)じゃないか、とか、そんなことも考えるんです、が、やはり結局、中二病にこだわることになるわけです。かなり切実なせめぎ合いなんだろう、とも、確かに思いますけれど。そんなわけで私としては、こうしたところで既に、中二病を介したふたりの恋愛関係には、どこか無理が来始めている、或いは、来そうな予兆が生じている、と、そんなふうにも感じたりしちゃったんですが……そんなことない? これも私だけ?
 ただ、こんなことばかり言っておいてなんだけど、ふたりがなんらの成長もしていないというわけでは無論ない。恋愛か、もはや形骸化しつつあるアイデンティティか、という選択を迫られているなか、恋愛をできて且つ形骸化もしていないアイデンティティ、すなわち新生邪王真眼、という方向へと進んだのがこの物語ですから、ふたりは徐々にではあれ、一歩々々進めてはいるのです。まわりの手助けもあってだけど、橋の下ではきちんと言葉を交わしていましたし、その場面からは、一方的に面倒を見る、一方的に中二的妄想の対象とする、といった、それぞれの側からの一方向的な関係からは脱し得るのではないか、という、そんな予感を感じさせてくれた瞬間もあった。

 
TVアニメ『中二病でも恋がしたい!戀』PV - YouTube

 ところで、最終話に来てここで突如、これまで(たぶん)見られなかった「生殖」(或いは、ありていに言っちまえば「エロ」)に関わる描写が頻出したのは、いかなるわけなのでしょう。例えば次のような描写。

・統計的には高校2年の夏に……。
・上級契約と聞いて性交渉を思い浮かべたらしい凸ちゃんとモリサマちゃん。
・会いたかった……と言いながら一色の胸をまさぐる(いかにも誘ってるふうな?)チヒロ(男)。
・銭湯の壁にあった飾りの花、これの落ちる描写(そして一色の「アッ――!」)。
・キメラの出産、生まれた子猫達。

 最後の出産というのは明らかに(――って、単純に過ぎてアヤシい気もしますが)、なにか新しいものが生まれた、ということの謂いであり、これはおそらく、(邪気眼系の)中二病と恋心との調停、そしてそれらの融合した、新しくて且つ多様なる(?)恋のかたち(のそのひとつ)、といった感じのものを表しているのでしょう。恋人であればキスくらいするもの、関係の展開は積極的に図るべき、といった感じの、一般的な(?)恋愛観への中二病なりの反駁がこれ、みたいな。うえで述べてきたことと併せて考えるなら、邪王真眼の新生に通じるものとも言えるでしょう。で、そのキスに関わって、橋の下に於ける最後の場面、六花ちゃんは、結社の皆と一緒に来てくれていたソフィアちゃんから「逃げちゃダメ」と説教される。六花ちゃんは最初、邪王真眼恋人契約における上級契約の種類は多種多様、みたいないいわけをしていたけれど、この言葉に対しては一応最後、彼女と富樫君はそれぞれ互いにきちんと向き合うことにし、完遂こそはしなかったものの、キスをしようとしてはいた。これはやはり、彼等の(小さな?)一歩といえるものでしょう(そもそも橋の下で富樫君に……というのを画策したのは六花ちゃんですし。逃げようとしてたけど)。このゆっくりとした恋の進展については、ちょっとずつ、ふたりのスピードで、もとより「普通」ではない、自分(達)は「中二病」であるのだから、という、そういう主題に沿った展開だったと思えるので、最後ふたりがあえてキスをしなかった(、というより「できなかった」)のは、とてもよかったと思います。……というか、そういう展開以外考えられなかった、というのが、正直なところではあったりする。

 

 まぁけど、或いは、って感じの話になるけれど、邪王真眼が最強であり、中二病と恋愛とを調停しうる(であろう)存在である以上、ほのめかす程度でもキスをしたという描写があったら、それでも別によかったかな、と、そう思う自分もいたりします。なぜかと言うと、口同士のキスはできず、それぞれ互いの頬へとキスしあうところでとどまってしまう、という展開では結局、それぞれからの一方向的な関係性がその後も続いてしまうんじゃないか、とか、そんな勘繰りを(私は)したくなるし、また、恋愛物で、しかもルートを確定させながらこうまで遅々たる進みしか見せないのでは、ソフィアちゃんが出てきた意味もだいぶん薄まるし……けれど、ここで下手にソフィアちゃんへの罪悪感(?)から恋愛がいきなり発展しても、それはあまりに予定調和的、いかにも当て馬を出した恋愛物の定石(?)に則ったみたいになるようで、結局ほとんどなにも進んでいないというこの状況は、考えようによってはいい落とし所なのかもしれません。そのかわり、終わりなき日常がいかにも続く、って感じが生じたのも確かですが……。ただ、そういう、終わりなきどうたらこうたらに関わって、(邪気眼系)中二病とはもともとそういうものだろうとも思うし、また、六花ちゃんとソフィアちゃん(達)が中二的な妄想世界を共有していたごとくに見えつつも、しかし、彼女等がその世界を表す言辞をそれぞれ自分独自のそれで以て貫いていたこと、或いは、昼寝をして自分の世界に生きるくみん先輩、モリサマちゃんをモリサマーと認めたり認めなかったりする凸ちゃん、そのサーニャのためにモリサマーの設定を簒奪した偽モリサマー……などなどといった、こういった様々な描写、できごとに思いを至らせるなら、ここから、中二病や元中二病、或いは普通の(?)人の場合ですら、人間には自分の内で世界を完結させるきらいがあるのだ、という、そういった理解を得ることも可能ではないでしょうか。そしてそこからは、「重なりようのない世界に於いて生きる人々がそれでも歩み寄り共にある物語」、という、「中二病でも恋がしたい! 戀」観を引き出せるように思います。だいぶ、というか、かなり牽強付会ぎみですが、これで一応結論としておきます。

 

 ところで最後になりますが、そういえば、銭湯に於いてはなぜ、わざわざ衆道に足を踏み入れつつある一色を出さねばならなかったのでしょう。しかも、くみん先輩一筋だと自分に言い聞かせんとしている、すなわち、チヒロの言葉と態度に満更でもなさそうな姿で以て。(くみん先輩、或いは他の女性キャラとの絡みで非難されたがゆえなのか、)2期になって出番が減らされた一色というキャラクター、彼を登場させたその決着を、男同士の恋愛という方向へ持っていき、誰も傷つかない(?)かたちで付けんとした、というのはわからないでもない、が、けれどここまで出番の減っていた彼を、しかもこういう展開で、わざわざ最終回に於いて登場させねばならない理由はよくわかりません。勺合わせというならまぁそうですか、って感じだけれど。けどここで、出された以上は意味がある、と、思って見てみるなら、例えばこれも、旧弊な(?)男女という対で考えられる恋愛観に対する新たな多様なる恋愛模様のひとつ、みたいに捉えることもできるでしょうし、或いは、(子を産んだキメラと対比されるものとして位置付けられる、あくまで)生物学的な次元に於いてなんらの生産性も持たない、互いにすれちがってしまう関係性の謂い、そういったものとしてこれを読み取ることもできるでしょう……が、まぁ深読み、或いは曲解のたぐいになってしまうかな。それぞれ、関係性の発展(性交渉)を思わせる流れからの、すれちがい交わることのない関係、或いは、それの実行され次の段階へと進んだ関係、みたいな感じに、富樫君と六花ちゃんのこれからを暗示しているのかと思ったのですが……どうなのでしょう