ワールズエンド・サテライト

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『かぐや姫の物語』レビュー

 数週間前見た『かぐや姫の物語』の感想、まぁなんてことないテキトーなものを縷々羅列しただけの、なんらまとまりも整合性もない感想……というよりは連想された妄想のたぐいのそれだけど、備忘以上の意味はないから勝手に書く。

かぐや姫の物語 (ロマンアルバム)

かぐや姫の物語 (ロマンアルバム)

 

  世界観としては「輪廻」「循環」或いは「回帰」みたいなものをめぐるものとしてあった……まぁそもそもあの童歌で「まわれ、まわれ」「春夏秋冬」とかって唄っちゃってたりするからまんまなんだけど、髪上げに際しての宴から逃げ出して里山に戻った(夢の?)ときに、窯業(?)のおっさんから「死んだわけではない、めぐりめぐって春になるのを待ってるんだ」みたいなことを言われたり、或いは狩猟採集みたいなことやって土地を転々としてるらしい捨丸と再会したりとか、「めぐりめぐって」っていう事態がけっこうあるように見えた、というか、しかし思えばこの話、これは、月に居た頃(地球に行ったことがあるもののその記憶を奪われたという)誰かの唄う(なぜかそれだけ憶えていたらしい)童歌を聞いたことによって地球へのあこがれを抱いて(それが姫の「罪」になって)地球に落とされたっつうところから始まり、そして成長したのち記憶を奪われ月へと戻されることになりつつも、しかし宙から地球を見て涙を流す、つまり記憶にはないが体としては(?)憶えている……っていうところで終わる、ということを思うと、姫は姫に歌を聴かせた何者かと、きっとこののち同じ役割を誰かに対して果たすのでは、とも考えられる気がする。つまり、「姫」(すなわち「自然」の記憶を有した者)もまたこうして回帰している……っても考えられそうとか思ったりしたわけだった。もしそうだとしたら、結局月もそれに組み込まれているところの「自然に於ける回帰」とそれの本源性とか、或いはそこからの別方向の解釈としてちょっと思いついたんだけど、その「姫」のような「地上の記憶」を残すものたちを囲っておくっていうのも月側の思惑のうちだったりして、月側に謂わばそうした「異物」を置いておくことで、彼等は自分達の成長乃至進化……的なそういうのを(遺伝子みたいな次元で?)図ってたりすんじゃない、っていう(テキトー)SF妄想がこれ。月の奴等がなに由来の者なのかってのは判らんけど、もし自然からやはり生まれた者であるならば、自分達を生んだもの(とそれによる営み)を「穢れ」と呼び、それから離れ、それに焦がれることを「罪」と呼ぶって、なんというか「自然」の忌避、或いは「人為(自然に対比されるものの謂い……のつもり)」による「自然」の征服って感じがして、そうなるとまさに「科学」の領域っぽい雰囲気がしてくる――だったらきっと、彼等は例えば「生殖」という営みも、自然なそれではなく「(まさに人為的な)科学」による方途を用いて、つまり試験管ベビー的な方法で以て作ってたりするに違いない、だから彼等は生殖能力にかかわる身体機能が低下していてだから姫は誰かと恋仲になるのを結果的に避けてたんだよ!(な、なんだってー!)――みたいなことを思いついたんだけど、月から来た使者のなかには、如来だか菩薩だかなんだかわからんけど仏様っぽいのが居て、テーマ的にもそれが「輪廻」「回帰」みたいなものである以上は、SFすなわち科学っぽい、主にキリスト教文化(とか或いはイスラム圏?)で育まれたそういう枠組によっかかった解釈は、やっぱり違うような気もしてくるんだけど、まぁ妄想するのは私の勝手だから備忘の意味で書いてだけおく。

 まぁだからそんで、その「仏様」ってとこから考えたら、最後に月へと行くってのは、「生への執着」すなわち「愛」を断ち切らんとした過程、ってーので、家族(やそして世界)との別れを惜しんだり、捨丸にいちゃんとの恋愛風な一幕をえがいたり、ってのは、そういう「愛」を断ち切れずにいた、みたいなものとして捉えることもできるだろうし、地球に於いて回帰し輪廻している自然というものへと内在するのをやめ、(月という十万億土……浄土へと?)解脱しようとする、みたいな、まぁ何仏教だか何宗だかごっちゃになってるようなものいいだけど、そんなふうにもとれるんじゃなかろうか……っていうか、単に、この映画を仏教的世界観によっているものとして受け取るんなら、そういうふうなほうが自然なんだろうとも思う。ただ、そういう世界観として捉えたときに言えるのは、これが死や解脱を称揚する話でなく、その「穢れ」多き地球にあって、しかしそれでも生きていく――みたいな話になる、ってところで、こう見たらむしろ生への讃歌になるわけだ……まぁそう捉えるのはいいにしても、けれど姫は、数々のすれちがいを経てっていうか、結局は誰とも交わることもなく、月へと還っていってるわけで(蛇足っつうか、完全に余計かもしれんけど、ここでこの「交わる」って言葉を生殖的なそれとして考えることもできようって思ったりもする……なんでかって、別に生への讃歌ってだけなら捨丸は女でもよさそうな気がするから、ってだけなんだけど、循環する自然に組み込まれようとする試みが姫のそれなんだってふうに解しうるとすれば、そこは素直に男―女の対で考えないと、それが生じなくなるわけだ)、しかしこれは畢竟、「自然」と「月」とのあいだで決定的に起きてしまう「捩れ」或いは「すれちがい」をえがいている、っても言えんだろうか。つまり、「自然」の営みからは完全に離れてもはや別物のごとくなっている「月」、すなわち何と言えばいいのか、「人為」というか、(仏教的、乃至は科学的なそれとしての)「真理」というか、まぁ人間が人間であるゆえに到達せられる――ってまぁ単に「思い付きうる」くらいの意味でそう言ってるだけなんだけど、そういう決して「自然」の写しではないような或る(象徴的?)次元と、「自然」にただ寄り添ってある「生物」の次元との、調停せられなさとでも言えばいいのか、これをえがいてる、みたいな、まぁそんな解釈(そうなると、姫と捨丸それぞれの(男女ってところから連想される)象徴的な役割が逆じゃん、って感じもしてくるけど)


6分 ジブリ かぐや姫 プロローグ 〜序章〜 Studio Ghibli "Kaguya-hime no ...

 

 で、姫が自分を指して贋ものって言ってたのも、ここらへんに関わってくるんじゃないの、って感じで、それは「月」世界に本来あるべき存在として、いかに憧憬を抱こうと、「自然」と姫には絶対的な懸隔があるというか、上でも書いたけど、貴公子や帝の求婚を(キモいもんだから)なんのかんのと断り、最後も(こちらは愛しえた筈の)捨丸とは結ばれず、で、結局姫は、「自然」の側にしてみれば一時地球に来たっただけの「客人」でしかなかったじゃん、それに、姫と「自然」との描写にしても、彼女は一瞬で過ぎ去った幼時の楽しい記憶を抱くばかりで、「自然」に生きる以上直面せざるをえないような、切羽詰まったというか切実なというか、そういう「生」に直結した厳しい次元というのには、あんま出会ってないようにも私としては思うのだった。他方、それをまさに体現しているのは捨丸にいちゃんで、彼は決して単純な「いい人」とかでは決してなく、タケノコ(かぐや姫)が瓜かなにかを盗っちゃったときにはそれを結果的には手伝って片棒を担いでたりするし、姫と都で再会したときには泥棒なんてやっちゃったりもしていて、きっと彼によっては謂わば「生にしたたか」な存在、自らの「生きる」ということを懸命に遂行するそうした「生き物」としての存在(作中で姫が歌う「とーりぃ、むーしぃ、けーもーの」の側に近い存在)というのを表されてたりすんでないのかな、と(んでもって、その「生に直結している」というのの「度合」みたいなのは、捨丸(とそのまわりの人々)から、都、宮中と経て、「月」で最大薄まるって感じに、階調をなしている感じ)。……で、そこから思ったのと、あらすじググって気付かされたんだけど、姫が帝のところからいきなりワープみたいなのして離れる場面が作中あって、なんやねん、って思ってたけど、あれは帝がキモくて「ここにいたくない」みたいなことを思ったから、それが引金になって起こって、さらには「月」の記憶も甦った、ってところらしい――んだとすると、捨丸と、貴公子や及び帝ってのは、人間の別々の側面の象徴っていうか、結局妻子がいるってのもあったのか姫と逐電に走らず日常に回帰してった捨丸と、宮中という或る種特殊であろう世界に生きて、見栄というか虚栄心というか(まぁ欲望なんだけど)、そんな感じのものによって動いている貴公子や帝、って感じで、人間の別側面をえがいていた、みたいにもとれるような気がしてくるのだった。まぁ、これらは、利他的とか利己的みたいなことばで表せるもんではないだろうけど(捨丸だって盗みとかしてるわけだし、或いは貴公子のなかの死んじゃった奴なんかは、少なくともその恋心は純真な感じだったりしてたし)、なんにせよ、金とか着物を与えられたりして都に行くように仕向けられていたってことを思えば、これが月によって手の引かれた、姫が地球をキモく思うようになるためのその課程であることに相違はあるまい――ってまぁけどそうなったら、地球に於いてキモくてウザいのって、あくまで宮中のそれだけで、「自然」に関してこれは「失われた美しいもの」みたいな感じになって、逆説的に、姫は地球へのあこがれ、或る種の希望みたいなのを、結局は捨てないままになるじゃん……いや、そのへん込みでの「月」の思惑なのかしら、地球に於いてある宮中というものへの厭悪と、自然へのやはり捨てられない憧憬とのあいだで、希望を持ちつつもそれとはまた別のもののゆえに、その希望をも手放すことになる、みたいな。だとしたらエグいな、月。……ってところからまた考えられるのは、そうなると、この話で一番批判されてるというか、その是非が問われてるのって、「自然」に密着した「生」の次元から離れて、そしてまた(仏教的なそれとかの)「真理」みたいな次元からしても煩悩まみれで乖離しているところの、「宮中」的な世界なんでないの、と、そんなふうにも思えてくるのだった。もう面倒だから終わる。

 けど最後、姫の犯した「罪」と「罰」って結局なんだったのか。なんか小説版には書いてあるらしい、みたいなことが検索してたらわかったけど、まぁ特に買う気もないから映画を観ただけで考えれたことを書いておく。けどまぁ「罪」は「地球に憧れを持ったこと」みたいに(月人に?)言われてた気がするから、素直に受け取ればそのことでいいんだろうけど、対して「罰」は、そもそも罰って、それを経ることで犯した罪が赦されるそうした事態というか課程というか(或いは振るわれる暴力とか?)そういうのを指すんだろうから――こういうところから考えてみると、月の者からしてみれば、地上のことを忘れて月に帰れることが「赦し」なんだろうってなって、そうだとすると、その(直)前には「罰」の過程(或いはそれの終焉)がなければならないことになる。であるなら、「罰」とは、地球に恋い焦がれながらも、それにかかわる一切をまさに捨てさせられようとしているというその苦悩、これのことを指すんでないの……って思ったけど、捨てさせられようとしているのは恋い焦がれの最後の絶頂にあるときだから、それんときにパッて忘れさせられるのは、ポックリ死ぬみたいなもんで、或る意味では幸せだったりするんじゃないか、いや、けど、まさに身を焦がす苦しみではあろうから、やっぱり苦痛か……よく判らん。或いはまぁ、上でも書いたけど、地球への希望、あこがれみたいなのを心のなかでは宿した儘、しかし他方でその地球への嫌悪も持ち、そんでもって「月」への帰還を願ってしまうことになる、みたいな状況に陥るのが「罰」だったりするのかも。なんにせよ、やっぱりよくワカラナイ。オワリ。